・・・それは百姓で、酒屋から家に帰りかかった酔漢であった。この男は目にかかる物を何でも可哀がって、憐れで、ああ人間というものは善いものだ、善い人間が己れのために悪いことをするはずがない、などと口の中で囁く癖があった。この男がたまたま酒でちらつく目・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・ 鼻の前を、その燈が、暗がりにスーッと上ると、ハッ嚔、酔漢は、細い箍の嵌った、どんより黄色な魂を、口から抜出されたように、ぽかんと仰向けに目を明けた。「ああ、待ったり。」「燃えます、旦那、提灯を乱暴しちゃ不可ません。」「貸し・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・という眼におそれを成して、可能性の文学という大問題について、処女の如く書き出していると、雲をつくような大男の酔漢がこの部屋に乱入して、実はいま闇の女に追われて進退谷まっているんだ、あの女はばかなやつだよ、おれをつかまえて離さないんだ、清姫み・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・ポン引が徘徊して酔漢の袖を引いているのも、ほかの路地には見当らない風景だ。私はこの横丁へ来て、料理屋の間にはさまった間口の狭い格子づくりのしもた家の前を通るたびに、よしんば酔漢のわめき声や女の嬌声や汚いゲロや立小便に悩まされても、一度はこん・・・ 織田作之助 「世相」
・・・工場の小路で、酔漢の荒い言葉が、突然起った。私は、耳をすました。 ――ば、ばかにするなよ。何がおかしいんだ。たまに酒を呑んだからって、おらあ笑われるような覚えは無え。I can speak English. おれは、夜学へ行ってんだよ。・・・ 太宰治 「I can speak」
・・・嘉七は、酔漢みたいな口調で言った。 なぜ、おれは嫉妬しないのだろう。やはり、おれは、自惚れやなのであろうか。おれをきらう筈がない。それを信じているのだろうか。怒りさえない。れいのそのひとが、あまり弱すぎるせいであろうか。おれのこんな、も・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・いよいよ酔漢の放言として、嘲笑されるくらいのところであろう。唐突に、雪溶けの小川が眼に浮ぶ。岸に、青々と芹が。あああ、私には言いたい事があるのだ。山々あったのである。けれども、急に、いやになった。なぜか、いやになった。いいのだ。私は永久に故・・・ 太宰治 「善蔵を思う」
・・・こけた無学の下婢をこの魚容に押しつけ、結婚せよ、よい縁だ、と傍若無人に勝手にきめて、魚容は大いに迷惑ではあったが、この伯父もまた育ての親のひとりであって、謂わば海山の大恩人に違いないのであるから、その酔漢の無礼な思いつきに対して怒る事も出来・・・ 太宰治 「竹青」
・・・立派な口髭を生やしながら、酔漢を相手に敢然と格闘して縁先から墜落したほどの豪傑と、同じ墓地に眠る資格は私に無い。お前なんかは、墓地の択り好みなんて出来る身分ではないのだ。はっきりと、身の程を知らなければならぬ。私はその日、鴎外の端然たる黒い・・・ 太宰治 「花吹雪」
・・・その車の入り口のいちばん端にいた浴衣がけの若者が、知らん顔をしてはいたが、片腕でしっかり壁板を突っぱって酔漢がころげ落ちないように垣を作っていた。新青年と旧青年との対照を意外なところで見せられる気がした。 雨気を帯びた南風が吹いて、浅間・・・ 寺田寅彦 「軽井沢」
出典:青空文庫