・・・そんな古人の句の酸鼻が、胸に焦げつくほどわかるのだ。私は、人間の資格をさえ、剥奪されていたのである。 私は、いま、事実を誇張して書いてはいけない。充分に気をつけて書いているのであるから、読者も私を信用していいと思う。れいのひとりよがりの・・・ 太宰治 「鴎」
・・・見れば、見るほど、酸鼻の極である。ポチも、いまはさすがに、おのれの醜い姿を恥じている様子で、とかく暗闇の場所を好むようになり、たまに玄関の日当りのいい敷石の上で、ぐったり寝そべっていることがあっても、私が、それを見つけて、「わあ、ひでえ・・・ 太宰治 「畜犬談」
・・・こうして、じりじり進んでいって、いるうちに、いつとはなしに自滅する酸鼻の谷なのではあるまいか。ああ、声あげて叫ぼうか。けれども、むざんのことには、笠井さん、あまりの久しい卑屈に依り、自身の言葉を忘れてしまった。叫びの声が、出ないのである。走・・・ 太宰治 「八十八夜」
・・・陰惨、酸鼻の気配に近い。 鶴は、厠の窓から秋のドオウンの凄さを見て、胸が張り裂けそうになり、亡者のように顔色を失い、ふらふら部屋へ帰り、口をあけて眠りこけているスズメの枕元にあぐらをかき、ゆうべのウイスキイの残りを立てつづけにあおる。・・・ 太宰治 「犯人」
・・・昔の人は酸鼻という熟語でこの感覚を表現した。更に「地底の墓」「落日の饗宴」とを読み、いくつかの「新人論」を瞥見し、私は、文学に、何ぞこの封建風な徒弟気質ぞ、と感じ、更に、そのような苦衷、あるいは卑屈に似た状態におとしめられていることに対して・・・ 宮本百合子 「十月の文芸時評」
・・・この戦役におけるイギリス負傷兵の状況の酸鼻が、しばしば議会の問題となり、世界の注目がそこにあつめられた。この時代まだ笞刑の行われていたイギリス陸軍の兵士が、クリミヤ戦争で傷つき、運ばれてゆくスクータリーの陸軍病院という名は、有識の人々の間に・・・ 宮本百合子 「フロレンス・ナイチンゲールの生涯」
・・・者が、文学修業の実際にとっては大した価うちとなるものを現実生活において見のがしながら、何か抽象的な情熱で、書かなければ、書かなければ、と日夜追いたてられているところに、誤って導かれた文学に対する理解の酸鼻を感じたのである。『婦人文芸』の・・・ 宮本百合子 「見落されている急所」
出典:青空文庫