・・・灰色の繻子に酷似した腹、黒い南京玉を想わせる眼、それから癩を病んだような、醜い節々の硬まった脚、――蜘蛛はほとんど「悪」それ自身のように、いつまでも死んだ蜂の上に底気味悪くのしかかっていた。 こう云う残虐を極めた悲劇は、何度となくその後・・・ 芥川竜之介 「女」
・・・その涙に濡れた眼でふり返った時、彼の今までの生活が、いかに醜いものに満ちていたか、それは今更云う必要はない。彼は誰にでも謝りたかった。そうしてまた、誰をでも赦したかった。「もし私がここで助かったら、私はどんな事をしても、この過去を償うの・・・ 芥川竜之介 「首が落ちた話」
・・・ 彼れは醜い泣声の中からそう叫んだ。 翌日彼れはまた亜麻の束を馬力に積もうとした。そこには華手なモスリンの端切れが乱雲の中に現われた虹のようにしっとり朝露にしめったまま穢ない馬力の上にしまい忘られていた。 ・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ミューズの女神も一片のチョコレットの前には、醜い老いぼれ婆にすぎないんだ。ミューズを老いぼれ婆にしくさったチョコレットめ、芸術家が今復讐するから覚悟しろ。ともちゃん、さあ。とも子 まあいやだ、誰がひとの食べかいたものなんか食べるもんです・・・ 有島武郎 「ドモ又の死」
・・・この男がたまたま酒でちらつく目にこの醜い犬を見付けて、この犬をさえ、良い犬可哀い犬だと思った。「シュッチュカ」とその男は叫んだ。これは露西亜で毎に知らぬ犬を呼ぶ名である。「シュッチュカ」、来い来い、何も可怖いことはない。 シュッチュ・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・ ト斜に、がッくりと窪んで暗い、崕と石垣の間の、遠く明神の裏の石段に続くのが、大蜈蚣のように胸前に畝って、突当りに牙を噛合うごとき、小さな黒塀の忍び返の下に、溝から這上った蛆の、醜い汚い筋をぶるぶると震わせながら、麸を嘗めるような形が、・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・――この人は、死んだ鯉の醜い死骸を拾いました。……私は弱い身体の行倒れになった肉を、この人に拾われたいと存じます。画家 (あるいは頷奥さん、更めて、お縫さん。夫人 はアい。画家 貴女のそのお覚悟は、他にかえようはないのですか。・・・ 泉鏡花 「山吹」
・・・あの行衛知れずになった犬というはポインターとブルテリヤの醜い処を搗交ぜたような下等雑種であって、『平凡』にある通りに誰の目にも余り見っとも好くない厭な犬であった。『平凡』では棄てられてクンクン鳴いていた犬の子を拾って育て上げたように書いてあ・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・私みたいな醜い姿を見たとて、なんで目を楽しませることがあるもんですか。」と、小鳥は答えた。「こちょうの姿は、そんなにきれいなんですか。あなたの姿よりも、もっときれいなんですか。」と、ぼけの花は驚いてききました。「私はいい声で唄をうた・・・ 小川未明 「いろいろな花」
・・・この不自由な、醜い、矛盾と焦燥と欠乏と腹立たしさの、現実の生活から、解放される日は、そのときであるような気がしたのです。「おれは、こんな形のない空想をいだいて、一生終わるのでないかしらん。いやそうでない。一度は、だれの身の上にもみるよう・・・ 小川未明 「希望」
出典:青空文庫