・・・店員はほかにも四五人、金庫の前や神棚の下に、主人を送り出すと云うよりは、むしろ主人の出て行くのを待ちでもするような顔をしていた。「きょうは行けない。あした行きますってそう云ってくれ。」 電話の切れるのが合図だったように、賢造は大きな・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・ 志す旅籠屋は、尋ねると直ぐに知れた、有名なもので、柏屋金蔵。 そのまま、ずっと小宮山は門口に懸りまする。「いらっしゃいまし。」「お早いお着。」「お疲れ様で。」 と下女共が口々に出迎えまする。 帳場に居た亭主が、・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・やがて父親は、なにかいって金庫の方を指さしました。するといちばん年上の娘が、その金庫の方に歩いていって、そのとびらを開けました。そして中から、たくさんの金貨を盛った箱を、父親のねているまくらもとに持ってきました。父親はなにかいっていましたが・・・ 小川未明 「青い時計台」
・・・何しろ金庫の中に入れてるぐらいだから。もっともあんた方は本を大事にする商売の人ですから、間違いないでしょうが。大事に頼みますよ」 そんなにくどくどと勿体をつけられて借りると、私は飛ぶようにして家へかえり、天辰の主人がどうしてこれを手に入・・・ 織田作之助 「世相」
・・・私宅だって金庫を備えつけて置くほどの酒屋じゃアなし、ハッハッハッハッハッハッ。取られる時になりゃ私の処だって同じだ。大井様は済んだとして、後の二軒は誰が行く筈になっています」「午後私が廻る積りです」 升屋の老人は去り、自分は百円の紙・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・ しばらく私たちは、大きな金庫の目につくようなバラック風の建物の中に時を送った。「現金でお持ちになりますか。それとも御便利なように、何かほかの形にして差し上げるようにしましょうか。」 と、そこの銀行員が尋ねるので、私は例の小切手・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・そうしてその翌る朝、おかみさんに質屋に連れて行かれて、おかみさんの着物十枚とかえられ、私は質屋の冷くしめっぽい金庫の中にいれられました。妙に底冷えがして、おなかが痛くて困っていたら、私はまた外に出されて日の目を見る事が出来ました。こんどは私・・・ 太宰治 「貨幣」
・・・けれども画壇の一部に於いては、鶴見はいつも金庫の傍で暮している、という奇妙な囁きも交わされているらしく、とすると仙之助氏の生活の場所も合計三つになるわけであるが、そのような囁きは、貧困で自堕落な画家の間にだけもっぱら流行している様子で、れい・・・ 太宰治 「花火」
・・・学術的論文というものは審査委員だけが内証でこっそり眼を通して、そっと金庫にしまうか焼き棄てるものではない。ちゃんとどこかの公私の発表機関で発表して学界の批評を受け得る形式のものとしなければならないように規定されているのである。それで、もしも・・・ 寺田寅彦 「学位について」
・・・手術料は毎回払いであったが、いつも先生自身で小さな手さげ金庫の文字錠をひねっておつりを出してくれたのが印象に残っている。 西洋へ行く前にどうしても徹底的にわるい歯の清算をしておく必要があるのでおおよそ半月ほど毎日○○病院に通った。継ぎ歯・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
出典:青空文庫