・・・ その拍子に、淀川の流れに釣糸を垂れている男の痩せた背中が、眼にはいった。 そこは渡辺橋の南詰を二三軒西へ寄った川っぷちで、ふと危そうな足場だったから、うしろから見ると、今にも川へ落ちそうだった。 豹吉はその男の背中を見ていると・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・潮は今ソコリになっていてこれから引返そうというところであるから、水も動かず浮子も流れないが、見るとその浮子も売物浮子ではない、木の箸か何ぞのようなものを、明らかに少年の手わざで、釣糸に徳利むすびにしたのに過ぎなかった。竿も二間ばかりしかなく・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・プラタプは少し離れて、釣糸を垂れる。彼は檳榔子を少し持って来ました。スバーが、それを噛めるようにしてやる そうやって長いこと坐り、釣の有様を見ている時、彼女は、どんなにか、プラタプの素晴らしい手伝い、真個の助けとなって、自分が此世に只厄・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・鮒か、うなぎか、ぐいぐい釣糸をひっぱるように、なんだか重い、鉛みたいな力が、糸でもって私の頭を、ぐっとひいて、私がとろとろ眠りかけると、また、ちょっと糸をゆるめる。すると、私は、はっと気を取り直す。また、ぐっと引く。とろとろ眠る。また、ちょ・・・ 太宰治 「女生徒」
・・・なれども、放心の夢さめてはっと原稿用紙に立ちかえり書きつづけようとしてはたと停とん、安というこの一字、いったい何を書こうとしていたのか、三つになったばかりの早春死んだ女児の、みめ麗わしく心もやさしく、釣糸噛み切って逃げたなまずは呑舟・・・ 太宰治 「創生記」
・・・幹が一抱え以上もある柳の樹蔭に腰をおろして、釣糸を垂れた。釣れる場所か、釣れない場所か、それは問題じゃない。他の釣師が一人もいなくて、静かな場所ならそれでいいのだ。釣の妙趣は、魚を多量に釣り上げる事にあるのでは無くて、釣糸を垂れながら静かに・・・ 太宰治 「令嬢アユ」
・・・氷の穴から釣糸を垂れている者がある。黒い外套の裾からいろんな色の木綿更紗のスカートを出した女達が五六人かたまって厚い氷をわり、洗濯ものを籠から出してはゆすいでいた。何かの染色がとけて氷の中の水は緑っぽく見えた。 岸に上って見渡すと氷の上・・・ 宮本百合子 「子供・子供・子供のモスクワ」
・・・ 大きな楓の樹蔭にあぐらをかき、釣糸を垂れながら禰宜様宮田はさっきから、これ等の美しい景色に我を忘れて見とれていたのである。「まったくはあ、偉えもんだ……」 彼は思わずもつぶやく。 そして、自分の囲りにある物という物すべてか・・・ 宮本百合子 「禰宜様宮田」
出典:青空文庫