・・・て立膝した長襦袢の膝の上か、あるいはまた船底枕の横腹に懐中鏡を立掛けて、かかる場合に用意する黄楊の小櫛を取って先ず二、三度、枕のとがなる鬢の後毛を掻き上げた後は、捻るように前身をそらして、櫛の背を歯に銜え、両手を高く、長襦袢の袖口はこの時下・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・ それきり何も云わず、ポケットから巻煙草を出して唇の先へ銜え、マッチをすり、火をつけると、一吹きフーと長く煙をはいた。その手がひどく震えて居る。煙草の灰がたまりもしないのに三白眼でこっちを睨みつめながら指先をパタパタやって灰をおとす。そ・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・ 室内の温度の余り高いのを喜ばない秀麿は、煖炉のコックを三分一程閉じて、葉巻を銜えて、運動椅子に身を投げ掛けた。 秀麿の心理状態を簡単に説明すれば、無聊に苦んでいると云うより外はない。それも何事もすることの出来ない、低い刺戟に饑えて・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・ 五 宿場の場庭へ、母親に手を曳かれた男の子が指を銜えて這入って来た。「お母ア、馬々。」「ああ、馬々。」男の子は母親から手を振り切ると、厩の方へ馳けて来た。そうして二間ほど離れた場庭の中から馬を見ながら、・・・ 横光利一 「蠅」
出典:青空文庫