・・・すると母は僕の剣幕の余り鋭いので喫驚して僕の顔を見て居るばかり、一言も発しません。『サア理由を聞きましょう。怨霊が私に乗移って居るから気味が悪いというのでしょう。それは気味が悪いでしょうよ。私は怨霊の児ですもの。』と言い放ちました、見る・・・ 国木田独歩 「運命論者」
・・・諸説まちまちであり、また結論するところ自分を完くは満足させてくれなくとも、ともかくも自分の関心せずにおられぬ活きた人生の実践的問題がとりあげられ、巷間の常識ではそのままうち捨てられているのに、ここでは鋭い問いを発し熱心に討究されているのを見・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・ 必死の、鋭い、号泣と叫喚が同時に、老人の全身から溢れた。それは、圧迫せられた意気の揚らない老人が発する声とはまるで反対な、力のある、反抗的な声だった。彼は「何をするのだ! 俺がどうして斬られるようなことをしたんだ!」と、叫んでいるよう・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・しかしよしや大智深智でないまでも、相応に鋭い智慧才覚が、恐ろしい負けぬ気を後盾にしてまめに働き、どこかにコッツリとした、人には決して圧潰されぬもののあることを思わせる。 客は無雑作に、「奥さん。トいう訳だけで、ほかに何があったのでも・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・扉が小さい室に風を煽って閉まると、ガチャン/\と鋭い音を立てゝ錠が下り、――俺は生れて始めて、たった独りにされたのだ。 俺は音をたてないように、室の中を歩きまわり、壁をたゝいてみ、窓から外をソッと覗いてみ、それから廊下の方に聞き耳をたて・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・多年の経験から来たその鋭い眼を家の台所にまで向けることは、あまりおさだに悦ばれなかった。「姉さんはお料理のことでも何でもよく知っていらっしゃる。わたしも姉さんに教えて頂きたい」 とおさだはよく言ったが、その度におさだの眼は光った。・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・顔は鋭い空気に晒されて、少なくも六十年を経ている。骨折沢山の生涯のために流した毒々しい汗で腐蝕せられて、褐色になっている。この顔は初めは幅広く肥えていたのである。しかし肉はいつの間にか皮の下で消え失せてしまって、その上の皮ががっしりした顴骨・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・ こんどは、ちょっと鋭い語調でした。同時に、玄関のあく音がして、「大谷さん! いらっしゃるんでしょう?」 と、はっきり怒っている声で言うのが聞えました。 夫は、その時やっと玄関に出た様子で、「なんだい」 と、ひどくお・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・若い美しい女を見ると、平生は割合に鋭い観察眼もすっかり権威を失ってしまう。若い時分、盛んにいわゆる少女小説を書いて、一時はずいぶん青年を魅せしめたものだが、観察も思想もないあくがれ小説がそういつまで人に飽きられずにいることができよう。ついに・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・ この時代の彼の外観には何らの鋭い天才の閃きは見えなかった。ものを云う事を覚えるのが普通より遅く、そのために両親が心配したくらいで、大きくなってもやはり口重であった。八、九歳頃の彼はむしろ控え目で、あまり人好きのしない、独りぼっちの仲間・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
出典:青空文庫