・・・に売っている月耕や年方の錦絵をはじめ、当時流行の石版画の海はいずれも同じようにまっ青だった。殊に縁日の「からくり」の見せる黄海の海戦の光景などは黄海と云うのにも関らず、毒々しいほど青い浪に白い浪がしらを躍らせていた。しかし目前の海の色は――・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・いったいひとり荒岩に限らず、国見山でも逆鉾でもどこか錦絵の相撲に近い、男ぶりの人に優れた相撲はことごとく僕の贔屓だった。しかし相撲というものは何か僕にはばくぜんとした反感に近いものを与えやすかった。それは僕が人並みよりも体が弱かったためかも・・・ 芥川竜之介 「追憶」
・・・ 広重の情趣 尤も、今の東京にも、昔の錦絵にあるやうな景色は全然なくなつてしまつたわけではない。僕は或る夏の暮れ方、本所の一の橋のそばの共同便所へ入つた。その便所を出て見ると、雨がぽつ/\降り出してゐた。その時、一の橋とたてがは・・・ 芥川竜之介 「東京に生れて」
・・・「厭な児だよ、また裾を、裾をッて、お引摺りのようで人聞きが悪いわね。」「錦絵の姉様だあよ、見ねえな、皆引摺ってら。」「そりゃ昔のお姫様さ。お邸は大尽の、稲葉様の内だって、お小間づかいなんだもの、引摺ってなんぞいるものかね。」・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・霊前に近く、覚悟はよいか、嬉しゅうござんす、お妻の胸元を刺貫き――洋刀か――はてな、そこまでは聞いておかない――返す刀で、峨々たる巌石を背に、十文字の立ち腹を掻切って、大蘇芳年の筆の冴を見よ、描く処の錦絵のごとく、黒髪山の山裾に血を流そうと・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・「此家に何だね、僕ン許のを買ってもらった、錦絵があったっけね。」「へい、錦絵。」と、さも年久しい昔を見るように、瞳を凝と上へあげる。「内で困って、……今でも貧乏は同一だが。」 と織次は屹と腕を拱んだ。「私が学校で要る教科・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・ 欲いのは――もしか出来たら――偐紫の源氏雛、姿も国貞の錦絵ぐらいな、花桐を第一に、藤の方、紫、黄昏、桂木、桂木は人も知った朧月夜の事である。 照りもせず、くもりも果てぬ春の夜の…… この辺は些と酔ってるでしょう。・・・ 泉鏡花 「雛がたり」
・・・――人も立ち会い、抱き起こし申す縮緬が、氷でバリバリと音がしまして、古襖から錦絵を剥がすようで、この方が、お身体を裂く思いがしました。胸に溜まった血は暖かく流れましたのに。―― 撃ちましたのは石松で。――親仁が、生計の苦しさから、今夜こ・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・その頃は何に由らず彩色人の摺物は絵双紙屋組合に加入しなければ作れなかったもので、喜兵衛はこれがために組合へ加入して、世間の軽焼の袋が紅一遍摺であるに反して、板下に念を入れた数遍摺の美くしい錦絵のような袋を作った。疱瘡痲疹の患者は大抵児供だか・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・翁の影太く壁に映りて動き、煤けし壁に浮かびいずるは錦絵なり。幸助五六歳のころ妻の百合が里帰りして貰いきしその時粘りつけしまま十年余の月日経ち今は薄墨塗りしようなり、今宵は風なく波音聞こえず。家を繞りてさらさらと私語くごとき物音を翁は耳そばだ・・・ 国木田独歩 「源おじ」
出典:青空文庫