・・・私の見るところによると職業の分化錯綜から我々の受ける影響は種々ありましょうが、そのうちに見逃す事のできない一種妙な者があります。というのはほかでもないが開化の潮流が進めば進むほど、また職業の性質が分れれば分れるほど、我々は片輪な人間になって・・・ 夏目漱石 「道楽と職業」
・・・それでも、まだ素朴な感傷でだけ結果的にそれにふれている尾崎氏よりは山本氏の記述の方が事件の背後の錯綜にふれ得ているのである。 作家が社会化し、大人になるということは単に踏む土と聞く音が変り、異常事の只中に在るというだけでは尽されない。そ・・・ 宮本百合子 「明日の言葉」
・・・一九二七・八年からあとの日本の社会は、戦争強行と人権剥奪へ向って人民生活が坂おとしにあった時期であり、そこに生じた激しい摩擦、抵抗、敗北と勝利の錯綜こそ、「伸子」続篇の主題であった。そういう主題の本質そのものが、当時の社会状態では表現不可能・・・ 宮本百合子 「あとがき(『二つの庭』)」
明治、大正年代にも、日本の文学は様々な意味で複雑、多岐な発展をとげて来たのであるが、この三四年間における日本文学が物語る歴史性、社会性の錯綜の姿は、或る意味で実に日本文学未曾有の有様ではないかと思われる。 明治、大正と・・・ 宮本百合子 「意味深き今日の日本文学の相貌を」
・・・午後五時いまだ淡雪の消えかねた砂丘の此方部屋を借りる私の窓辺には錯綜する夜と昼との影の裡に伊太利亜焼の花壺タランテラを打つ古代女神模様の上に伝説のナーシサスは純白の花弁を西風にそよがせほのかに わが幻想を・・・ 宮本百合子 「海辺小曲(一九二三年二月――)」
・・・ここに非常に錯綜した課題が在ると思う。歴史一般が、今日は重く顧みられているが、それは過去の炬火として今日へ光りをそそぐべきものとして扱われていて、今日の現実の光が過去の現実を明晰にして明日の糧とするという意嚮に立つ面は弱いと思われる。いくつ・・・ 宮本百合子 「鴎外・芥川・菊池の歴史小説」
・・・という文章の中に、偶然藤村氏の息子として生れ事毎に父との連関で観られなければならない一青年蓊助の語りつくされない錯綜した激しい感情をよみとった。ここには、父の肖像を描いて二科に出品した鶏二さんの心持とは恐らく異っているだろうと思われるものが・・・ 宮本百合子 「鴎外・漱石・藤村など」
・・・情慾の力強さ、其の持つ歓びと怖れと悲しみの錯綜した経験などは、其に実際当って見なければ、其がどれ程まで霊と密接なものであり、畏るべきものであるかと云うことは分るまい。 自分は、二元論者ではない。其故、或時代の人々のように、人間が――異性・・・ 宮本百合子 「黄銅時代の為」
・・・と調子をつけて唱う声々の錯綜。―― その声と光に包まれながら、自分が廊下をゆっくり、ゆっくり歩いて行く。大人のような気になり、前後左右のものを観察し、その心持を感じ、悦びは感じながらも手持ち無沙汰な有様で歩いて行く。メリンスの、雲と・・・ 宮本百合子 「思い出すかずかず」
・・・種々錯綜した緑の線、葉の重なり。ここでは緑に囲まれて坐るというところによさがあり、九州――臼杵で見た庭は、心が自ら樹間を逍遙する宏やかさがある。 九州へ一度も行かない人は、九州という処をどう想像するだろう。樹木なんぞこんなに細そり、・・・ 宮本百合子 「九州の東海岸」
出典:青空文庫