・・・ 今日我々のうち誰でもまず心を鎮めて、かの強権と我々自身との関係を考えてみるならば、かならずそこに予想外に大きい疎隔の横たわっていることを発見して驚くに違いない。じつにかの日本のすべての女子が、明治新社会の形成をまったく男子の手に委ねた・・・ 石川啄木 「時代閉塞の現状」
・・・その後難の憂慮のないように、治兵衛の気を萎し、心を鎮めさせるのに何よりである。 私は直ぐに立って、山中へ行く。 わざとらしいようでもあるから、別室へと思わぬでもなけれど、さてそうして、お前は爺さんたちと、ここに一所に。……決して私に・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・画家 (止むことを得ず、手をさすり脊筋を撫気をお鎮めなさい。人形使 (血だらけの膚を、半纏にて巻き、喘はい、……これは、えええ旦那様でござりますか、はい。画家 この奥さんの……別に、何と言うではないが、ちょっと知合だ。人形使・・・ 泉鏡花 「山吹」
・・・ ともいわず歌も詠まないが、中に人のいるような気勢がするから、ふと立停った、しばらく待ってても、一向に出て来ない、気を鎮めてよく考えると、なあに、何も入っていはしないようだったっさ。 ええ、姐さん変じゃないか、気が差すだろう。それからそ・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・毎夜のように彼の坐る窓辺、その誘惑――病鬱や生活の苦渋が鎮められ、ある距りをおいて眺められるものとなる心の不思議が、ここの高い欅の梢にも感じられるのだった。「街では自分は苦しい」 北には加茂の森が赤い鳥居を点じていた。その上に遠い山・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・そうして黙って気を鎮めていると私は自分を捕えている強い感動が一種無感動に似た気持を伴って来ていることを感じた。煙草を出す。口にくわえる。そして静かにそれを吹かすのが、いかにも「何の変わったこともない」感じなのであった。――燈火を赤く反映して・・・ 梶井基次郎 「器楽的幻覚」
・・・ 深い真昼時、船頭や漁夫は食事に行き、村人は昼寝をし、小鳥は鳴を鎮めて渡舟さえ動かず、いつも忙しい世界が、その働きをぴたりと止めて、急に淋しくおそろしいように成った時、宏い宏い、心に喰い入るような空の下には、唯、物を云わない自然と、こそ・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・ 佐伯は、すぐに笑いを鎮めて、熊本君のほうに歩み寄り、「読書かね?」と、からかうような口調で言い熊本君の傍にある机の、下を手さぐりして、一冊の文庫本を拾い上げた。机の上には、大形の何やら横文字の洋書が、ひろげられていたのであるが、佐・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・ だいたい火焔を鎮めてから私は妻の方に歩み寄って尋ねた。「ええ、」と静かに答えて、「これぐらいの事ですむのでしたらいいけど。」 妻には、焼夷弾よりも爆弾のほうが、苦手らしかった。 畑の他の場所へ移って、一休みしていると、また・・・ 太宰治 「薄明」
・・・「ああ、鎮めたまえ、荒れ狂う流れを! 時は刻々に過ぎて行きます。太陽も既に真昼時です。あれが沈んでしまわぬうちに、王城に行き着くことが出来なかったら、あの佳い友達が、私のために死ぬのです。」 濁流は、メロスの叫びをせせら笑う如く、ますま・・・ 太宰治 「走れメロス」
出典:青空文庫