・・・乱雑に着物がぬぎ捨てられてある、女の部屋らしく、鏡台がすぐ側にあった。その小さい引出しが開けられたままになっていたり、白粉刷毛が側に転がっていた。その時女の廊下をくる音をきいた。彼は襖をしめた。 女は安来節のようなのを小声で歌いながら、・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・古い鏡台古い箪笥、そういう道具の類ばかりはそれでも長くあって、毎朝私の家の末子が髪をとかしに行くのもその鏡の前であるが、長い年月と共に、いろいろな思い出すらも薄らいで来た。 あの母さんの時代も、そんなに遠い過去になった。それもそのはずで・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・箪笥や鏡台がきちんと場所をきめて置かれていた。首の細い脚の巨大な裸婦のデッサンがいちまい、まるいガラス張りの額縁に収められ、鏡台のすぐ傍の壁にかけられていた。これはマダムの部屋なのであろう。まだ新しい桑の長火鉢と、それと揃いらしい桑の小綺麗・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・タンス、鏡台、トランク、下駄箱の上には、可憐に小さい靴が三足、つまりその押入れこそ、鴉声のシンデレラ姫の、秘密の楽屋であったわけである。 すぐにまた、ぴしゃりと押入れをしめて、キヌ子は、田島から少し離れて居汚く坐り、「おしゃれなんか・・・ 太宰治 「グッド・バイ」
・・・ご存じでございましょうけれど、私の枕元には、三輪の水仙のほかに小さい鏡台がひとつ置かれてございます。私は花を眺め、それから、この鏡のなかを覗いて、私の美しい顔に話しかけます。美しい、と申しあげました。私は、私の顔を愛して居ります。いいえ、哀・・・ 太宰治 「古典風」
・・・寝巻のままで鏡台のまえに坐る。眼鏡をかけないで、鏡を覗くと、顔が、少しぼやけて、しっとり見える。自分の顔の中で一ばん眼鏡が厭なのだけれど、他の人には、わからない眼鏡のよさも、ある。眼鏡をとって、遠くを見るのが好きだ。全体がかすんで、夢のよう・・・ 太宰治 「女生徒」
・・・茶の間の障子のガラス越しにのぞいて見ると、妻は鏡台の前へすわって解かした髪を握ってぱらりと下げ、櫛をつかっている。ちょっとなでつけるのかと思ったら自分で新たに巻き直すと見える。よせばよいのに、早くしないかとせき立てておいて、座敷のほうへもど・・・ 寺田寅彦 「どんぐり」
・・・ 雪江は鏡台に向かって顔を作っていたが、やがて派手な晴衣を引っぴろげたまま、隣の家へ留守を頼みに行ったりした。ちょうど女中が見つかったところだったが、まだ来ていなかった。「叔父さんのお蔭で、二人いっしょに遊びに出られますのえ。今日が・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・ 箪笥や鏡台なんか並んでいる店の方では、昨夜お座敷の帰りが遅かったとみえて、女が二人まだいぎたなく熟睡していて、一人肥っちょうの銀杏返しが、根からがっくり崩れたようになって、肉づいた両手が捲れた掻巻を抱えこむようにしていた。 お絹は・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・何畳だか、一間きりの家の中はよくかたづいていて、あたらしいタンスや紅いきれのかかった鏡台やがあった。「印刷工組合の指導者、青井三吉も、女にかかると、あかんな、うーん」 長野がコップをつきつけた。女房に子供もあるがチャップリンひげと、・・・ 徳永直 「白い道」
出典:青空文庫