・・・ 犬は何でも、御新造はもとより、私もまだ起きない内に、鏡台の前へ仆れたまま、青い物を吐いて死んでいたんです。気がなさそうに長火鉢の前に、寝てばかりいるようになってから、かれこれ半月にもなりましたかしら。……」 ちょうど薬研堀の市の立つ日・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・ たね子はがっかりして本を投げ出し、大きい樅の鏡台の前へ髪を結いに立って行った。が、洋食の食べかただけはどうしても気にかかってならなかった。…… その次の午後、夫はたね子の心配を見かね、わざわざ彼女を銀座の裏のあるレストオランへつれ・・・ 芥川竜之介 「たね子の憂鬱」
・・・それから鏡台の前へ行き、じっと鏡に僕の顔を映した。鏡に映った僕の顔は皮膚の下の骨組みを露わしていた。蛆はこう云う僕の記憶に忽ちはっきり浮び出した。 僕は戸をあけて廊下へ出、どこと云うことなしに歩いて行った。するとロッビイへ出る隅に緑いろ・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・……白い桔梗でへりを取った百畳敷ばかりの真青な池が、と見ますと、その汀、ものの二……三……十間とはない処に……お一人、何ともおうつくしい御婦人が、鏡台を置いて、斜めに向かって、お化粧をなさっていらっしゃいました。 お髪がどうやら、お召も・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・とそう言って、……いきなり鏡台で、眉を落して、髪も解いて、羽織を脱いでほうり出して、帯もこんなに(なよやかに、頭あの、蓮葉にしめて、「後生、内証だよ。」と堅く口止をしました上で、宿帳のお名のすぐあとへ……あの、申訳はありませんが、おなじくと・・・ 泉鏡花 「山吹」
・・・ その拍子に、粗末な鏡台が眼にはいった。背中を向けて化粧している女の顔がうつっていた。案の定脱衣場で見た顔だった。白粉の下に生気のない皮膚がたるんでいると、一眼にわかった。いきなり宿帳の「三十四歳」を想い出した。それより若くは見えなかっ・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・彼女は化粧を直すため、鏡台の前で、ハンドバッグをあけるだろう。その中には仁丹の袋がはいっている。仁丹を口に入れて、ポリポリ噛みながら、化粧して、それから、ベッドへ行くだろう。パトロンの舌には半分融けかかった仁丹がいくつもくっつく……。しかし・・・ 織田作之助 「中毒」
・・・ その晩、道子は鏡台の傍をはなれなかった。掛けてははずし、はずしては掛け、しまいに耳の附根が痛くなった。 ――風邪を引いて、首にガーゼを巻いた時めたいに行けなかった――それが悲しかったのよ。でももういいわ。この女だってもう結婚するん・・・ 織田作之助 「眼鏡」
・・・私は母の鏡台の前まで走りました。そして自分の青ざめた顔をうつしました。それは醜くひきつっていました。何故そこまで走ったのか――それは自分にも判然しません。その苦しさを眼で見ておこうとしたのかも知れません。鏡を見て或る場合心の激動の静まるとき・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
・・・園子は朝起ると、食事前に鏡台の前に坐って、白粉をべったり顔にぬった。そして清三の朝飯の給仕をすますと、二階の部屋に引っこもって、のらくら雑誌を見たり、何か書いたりした。が、大抵はぐてぐて寝ていた。そして五時頃、会社が引ける時分になると、急に・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
出典:青空文庫