・・・石菖の水鉢を置いた子窓の下には朱の溜塗の鏡台がある。芸者が弘めをする時の手拭の包紙で腰張した壁の上には鬱金の包みを着た三味線が二梃かけてある。大きな如輪の長火鉢の傍にはきまって猫が寝ている。襖を越した次の座敷には薄暗い上にも更に薄暗い床の間・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・わたくしは梯子段を上りかけた時、そっと奥の間をのぞいて見ると、箪笥、茶ぶ台、鏡台、長火鉢、三味線掛などの据置かれた様子。さほど貧苦の家とも見えず、またそれほど取散らされてもいない。二階は三畳の間が二間、四畳半が一間、それから八畳か十畳ほどの・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
・・・ 鏡台の数だけ女も四、五人ほど、いずれも浴衣に細帯したままごろごろ寝転んでいた。暑い暑いといいながら二人三人と猫の子のようにくッつき合って、一人でおとなしく黙っているものに戯いかける。揚句の果に誰かが「髪へ触っちゃ厭だっていうのに。」と・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・六 あくる朝顔を洗ってへやへ帰ると、棚の上の鏡台が麗々と障子の前にすえ直してある。自分は何気なくその前にすわるとともに鏡の下の櫛を取り上げた。そしてその櫛をふくつもりかなにかで、鏡台のひきだしを力任せにあけてみた。すると浅い・・・ 夏目漱石 「手紙」
・・・小万はすでに裲襠を着、鏡台へ対って身繕いしているところへ、お梅があわただしく駈けて来て、「花魁、大変ですよ。吉里さんがおいでなさらないんですッて」「えッ、吉里さんが」「御内所じゃ大騒ぎですよ。裏の撥橋が下りてて、裏口が開けてあッ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・横浜へ迎えにゆくというので、その朝は暗いうちに起きて、ラムプの下へ鏡台を出して母は髪を結った。私は当時ハイカラであった白いぴらぴらのついた洋服を着せられて行ったが、船宿へついた時は雨であった。俥で波止場へ向ったが、少し行ったところで俥が逆も・・・ 宮本百合子 「カメラの焦点」
・・・この鏡と手鏡だけが、私の朝夕の顔、泣いた顔、うれしそうにしている時の顔を映すものなのだが、考えてみれば姿見だの鏡台だのというものがその部屋に目立たない女の暮しの数も、この頃は見えないところで随分殖えて来ているのではないかしら。見えないところ・・・ 宮本百合子 「この初冬」
・・・ この二三年来、日本の婦人たちの鏡台の上からコティの香水だの白粉だのが姿を消した。ナポレオンと同じコルシカ島のアジャチオ生れのこの敏腕な香水屋が、世界の香水界を支配する実業界の王者となったとき、彼は香水の瓶の形を工夫していることだけには・・・ 宮本百合子 「今日の生活と文化の問題」
・・・その棚の下のどこかに鏡台がおいてあったのを思えばそこは主に母の本棚だったのだろうか。 女学校の二年ぐらいから、玄関わきの小部屋を自分の部屋にして、こわれかかったような本棚をさがし出して来て並べ、その本棚には『当世書生気質』ののっている赤・・・ 宮本百合子 「祖父の書斎」
・・・ 家へ走り帰ると直ぐ吉は、鏡台の抽出から油紙に包んだ剃刀を取り出して人目につかない小屋の中でそれを研いだ。研ぎ終ると軒へ廻って、積み上げてある割木を眺めていた。それからまた庭に這入って、餅搗き用の杵を撫でてみた。が、またぶらぶら流し元ま・・・ 横光利一 「笑われた子」
出典:青空文庫