・・・茶の間には長火鉢の上の柱に、ある毛糸屋の広告を兼ねた、大きな日暦が懸っている。――そこに髪を切った浅川の叔母が、しきりと耳掻きを使いながら、忘れられたように坐っていた。それが洋一の足音を聞くと、やはり耳掻きを当てがったまま、始終爛れている眼・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・ この頃丸髷に結ったお蓮は、ほとんど宵毎に長火鉢を隔てながら、牧野の酒の相手をした。二人の間の茶ぶ台には、大抵からすみや海鼠腸が、小綺麗な皿小鉢を並べていた。 そう云う時には過去の生活が、とかくお蓮の頭の中に、はっきり浮んで来勝ちだ・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・子供のない彼女はひとりになると、長火鉢の前の新聞をとり上げ、何かそう云う記事はないかと一々欄外へも目を通した。が、「今日の献立て」はあっても、洋食の食べかたなどと云うものはなかった。洋食の食べかたなどと云うものは?――彼女はふと女学校の教科・・・ 芥川竜之介 「たね子の憂鬱」
・・・ その茶の室の長火鉢を挟んで、差むかいに年寄りが二人いた。ああ、まだ達者だと見える。火鉢の向うに踞って、その法然天窓が、火の気の少い灰の上に冷たそうで、鉄瓶より低い処にしなびたのは、もう七十の上になろう。この女房の母親で、年紀の相違が五・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・ 対の蒲団を、とんとんと小形の長火鉢の内側へ直して、「さ、さ、貴女。」 と自分は退いて、「いざまず……これへ。」と口も気もともに軽い、が、起居が石臼を引摺るように、どしどしする。――ああ、無理はない、脚気がある。夜あかしはし・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・その茶の間の一方に長火鉢を据えて、背に竹細工の茶棚を控え、九谷焼、赤絵の茶碗、吸子など、体裁よく置きならべつ。うつむけにしたる二個の湯呑は、夫婦別々の好みにて、対にあらず。 細君は名をお貞と謂う、年紀は二十一なれど、二つばかり若やぎたる・・・ 泉鏡花 「化銀杏」
・・・見れば食器を入れた棚など手近にある。長火鉢に鉄瓶が掛かってある。台所の隣り間で家人の平常飲み食いする所なのだ。是は又余りに失敬なと腹の中に熱いうねりが立つものから、予は平気を装うのに余程骨が折れる。「君夕飯はどうかな。用意して置いたんだ・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・禿げあたまは長火鉢の向うに坐って、旦那ぶっているのを見ると、例の野沢らしい。 僕はその室にあがって、誰れにもとつかず一礼すると、女の方は丁寧に挨拶したが、男の方は気がついたのか、つかないのか、飯にかこつけて僕を見ないようにしている。・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・お光は送り出しておいて、茶の間に帰るとそのままバッタリ長火鉢の前にくずおれたが、目は一杯に涙を湛えた。頬に流れ落ちる滴を拭いもやらずに、頤を襟に埋めたまま、いつまでもいつまでもじッと考え込んでいたが、ふと二階の呻り声に気がついて、ようやく力・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・ ところが、尋常三年生の冬、学校がひけて帰ってくると、新次の泣声が聴えたので、咄嗟に浜子の小言を覚悟して、おそるおそる上ると、いい按配に浜子の姿は見えず、父が長火鉢の前に鉛のように坐って、泣いている新次をぼんやりながめながら、煙草を吹か・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
出典:青空文庫