・・・粟野さんはいかにも長者らしい寛厚の風を具えている。保吉は英吉利語の教科書の中に難解の個所を発見すると、必ず粟野さんに教わりに出かけた。難解の、――もっとも時間を節約するために、時には辞書を引いて見ずに教わりに出かけたこともない訣ではない。が・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・「それは偉い軍人だがね、閣下はまた実に長者らしい、人懐こい性格も持っていられた。……」 少将はほとんど、感傷的に、将軍の逸話を話し出した。それは日露戦役後、少将が那須野の別荘に、将軍を訪れた時の事だった。その日別荘へ行って見ると、将・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・あるいはまた名高い給孤独長者も祇園精舎を造るために祇陀童子の園苑を買った時には黄金を地に布いたと言うことだけである。尼提はこう言う如来の前に糞器を背負った彼自身を羞じ、万が一にも無礼のないように倉皇と他の路へ曲ってしまった。 しかし如来・・・ 芥川竜之介 「尼提」
・・・その小字に長者屋敷と云うは、全く無人の境なり。茲に行きて炭を焼く者ありき。或夜その小屋の垂菰をかかげて、内を覗う者を見たり。髪を長く二つに分けて垂れたる女なり。このあたりにても深夜に女の叫声を聞くことは、珍しからず。佐々木氏の祖父の弟、・・・ 泉鏡花 「遠野の奇聞」
・・・……だけは、留守へ言って置くくらいだが、さて、何年にも、ちょっと来て二羽三羽、五、六羽、総勢すぐって十二、三羽より数が殖えない。長者でもないくせに、俵で扶持をしないからだと、言われればそれまでだけれど、何、私だって、もう十羽殖えたぐらいは、・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
・・・…… 浄飯王が狩の道にて――天竺、天臂城なる豪貴の長者、善覚の妹姫が、姉君矯曇弥とともに、はじめて見ゆる処より、優陀夷が結納の使者に立つ処、のちに、矯曇弥が嫉妬の処。やがて夫人が、一度、幻に未生のうない子を、病中のいためる御胸に、抱きし・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・一千年来の氏族政治を廃して、藤氏の長者に取って代って陪臣内閣を樹立したのは、無爵の原敬が野人内閣を組織したよりもヨリ以上世間の眼をらしたもんで、この新鋭の元気で一足飛びに欧米の新文明を極東日本の蓬莱仙洲に出現しようと計画したその第一着手に、・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・すると父から非常にしかられて、早速今夜あやまりに行けと命ぜられ長者を辱めたというので懇々説諭された。 その晩、僕は大沢先生の宅を初めて訪ねたが、別にあやまるほどの事もなく、老先生はいかにも親切にいろいろな話をして聞かして、僕は何だか急に・・・ 国木田独歩 「初恋」
・・・ 関白、内大臣、藤原氏の氏の長者、従一位、こういう人が飯綱の法を修したのである。太政大臣公相は外法のために生首を取られたが、この人は天文から文禄へかけての恐ろしい世に何の不幸にも遭わないで、無事に九十歳の長寿を得て、めでたく終ったのであ・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
・・・悦気面に満ちて四百五百と入り揚げたトドの詰りを秋子は見届けしからば御免と山水と申す長者のもとへ一応の照会もなく引き取られしより俊雄は瓦斯を離れた風船乗り天を仰いで吹っかける冷酒五臓六腑へ浸み渡りたり それつらつらいろは四十七文字を按ずる・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
出典:青空文庫