・・・今なら重婚であるが、その頃は門並が殆んど一夫多妻で、妻妾一つ家に顔を列べてるのが一向珍らしくなかったのだから、女房を二人持っても格別不思議とも思われなかった。そういう時勢であったから椿岳は二軒懸持の旦那で頤を撫でていたが、淡島屋の妻たるおく・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・曙町へはいると、ちょっと見たところではほとんど何事も起らなかったかのように森閑として、春のように朗らかな日光が門並を照らしている。宅の玄関へはいると妻は箒を持って壁の隅々からこぼれ落ちた壁土を掃除しているところであった。隣の家の前の煉瓦塀は・・・ 寺田寅彦 「震災日記より」
・・・この小路の左右に並ぶ家には門並方一尺ばかりの穴を戸にあけてある。そうしてその穴の中から、もしもしと云う声がする。始めは偶然だと思うていたが行くほどに、穴のあるほどに、申し合せたように、左右の穴からもしもしと云う。知らぬ顔をして行き過ぎると穴・・・ 夏目漱石 「京に着ける夕」
出典:青空文庫