・・・「うん、ここに開業している。」 譚永年は僕と同期に一高から東大の医科へはいった留学生中の才人だった。「きょうは誰かの出迎いかい?」「うん、誰かの、――誰だと思う?」「僕の出迎いじゃないだろう?」 譚はちょっと口をすぼ・・・ 芥川竜之介 「湖南の扇」
・・・随分おてんばさんで、二階の屋根づたいに隣の間へ、ばア――それよりか瓦の廂から、藤棚越しに下座敷を覗いた娘さんもあるけれど、あの欄干を跨いだのは、いつの昔、開業以来、はじめてですって。……この娘。……御当人、それで巌飛びに飛移って、その鯉をい・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・鮮の姉が肺をわずらって最寄りの医者に書いてもらっていた処方箋を、そっくりそのまま真似てつくったときくからは、一応うなずけもしたが、それにしてもそれだけの見聞でひとかどの薬剤師になりすまし、いきなり薬屋開業とは、さすがにお前だと、暫らく感嘆し・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・学生街なら、たいして老舗がついていなくても繁昌するだろうと、あちこち学生街を歩きまわった結果、一高が移転したあとすっかりはやらなくなって、永い間売りに出ていた本郷森川町の飯屋の権利を買って、うどん屋を開業した。 はじめはかなり客もあった・・・ 織田作之助 「雪の夜」
・・・ 母と妹とは自分達夫婦と同棲するのが窮屈で、赤坂区新町に下宿屋を開業。それも表向ではなく、例の素人下宿。いやに気位を高くして、家が広いから、それにどうせ遊んでいる身体、若いものを世話してやるだけのこと、もっとも性の知れぬお方は御免被ると・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・ この別荘がいくらか住まわれるように成って、入口に自然木の門などが建った頃には、崖下の浴場でもすっかり出来上るのを待たないで開業した。別に、崖の中途に小屋を建てて、鉱泉に老を養おうとする隠居さん夫婦もあった。 春の新学年前から塾では・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・折角伜がそう言ってよこして、新しく開業した食堂を母に見せたいと言うのだから。 お三輪は震災後の東京を全く知らないでもない。一度、新七に連れられて焼跡を見に上京したこともある。小竹とした暖簾の掛っていたところは仮の板囲いに変って、ただ礎ば・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・し蓄えも出来ましたので、いまのあの中野の駅ちかくに、昭和十一年でしたか、六畳一間に狭い土間附きのまことにむさくるしい小さい家を借りまして、一度の遊興費が、せいぜい一円か二円の客を相手の、心細い飲食店を開業いたしまして、それでもまあ夫婦がぜい・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・昭和通りに二つ並んで建ちかかっている大ビルディングの鉄骨構造をねらったピントの中へ板橋あたりから来たかと思う駄馬が顔を出したり、小さな教会堂の門前へ隣のカフェの開業祝いの花輪飾りが押し立ててあったり、また日本一モダーンなショーウィンドウの前・・・ 寺田寅彦 「カメラをさげて」
・・・ それから三月ほど後に、再びここを通ってみたら、いつの間にか、バラックが出来上がって、開業していた。這入ってみると、すべてが昔とはまるでちがった感じを与えた。よく拭き込んだ板敷の床は凸凹だらけの土間に変り、鏡の前に洋酒の並んだラック塗り・・・ 寺田寅彦 「雑記(2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」
出典:青空文庫