・・・…… 寛文十年陰暦十月の末、喜三郎は独り蘭袋に辞して、故郷熊本へ帰る旅程に上った。彼の振分けの行李の中には、求馬左近甚太夫の三人の遺髪がはいっていた。 後談 寛文十一年の正月、雲州松江祥光院の墓所には、四基の石塔・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・ 陰暦の九月十三日、今夜が豆の月だという日の朝、露霜が降りたと思うほどつめたい。その代り天気はきらきらしている。十五日がこの村の祭で明日は宵祭という訣故、野の仕事も今日一渡り極りをつけねばならぬ所から、家中手分けをして野へ出ることに・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・帰りの汽車で陰暦十四日の月を眺めながら一行の若い元気な学者達と地球と人間とに関する雑談に汽車の東京に近づくのを忘れていた。「静岡」大震災見学の非科学的随筆記録を忘れぬうちに書きとめておくことにした。・・・ 寺田寅彦 「静岡地震被害見学記」
・・・ 清朝の暦法はわが江戸時代と同じく陰暦を用いていた。或日父母に従って馬車を遠く郊外に馳せ、柳と蘆と桑ばかり果しなくつづいている平野の唯中に龍華寺という古刹をたずね、その塔の頂に登った事を思返すと、その日はたしかに旧暦の九月九日、即ち重陽・・・ 永井荷風 「十九の秋」
・・・ 十一日は陰暦の七夕の前日である。「笹は好しか」と云って歩く。翌日になって見ると、五色の紙に物を書いて、竹の枝に結び附けたのが、家毎に立ててある。小倉にはまだ乞巧奠の風俗が、一般に残っているのである。十五六日になると、「竹の花立はいりま・・・ 森鴎外 「鶏」
・・・ことにそのころがちょうど陰暦の十四、五日にでも当たっており、幸い晴れた晩があると、月光の下に楓の新緑の輝く光景を見ることができた。その光と色との微妙な交錯は、全く類のないものであった。 楓だけでもそれぐらいであるが、東山の落葉樹から見れ・・・ 和辻哲郎 「京の四季」
出典:青空文庫