・・・ 洋一は陰気な想像から、父の声と一しょに解放された。見ると襖の明いた所に、心配そうな浅川の叔母が、いつか顔だけ覗かせていた。「よっぽど苦しいようですがね、――御医者様はまだ見えませんかしら。」 賢造は口を開く前に、まずそうに刻み・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・ッコ皮の椅子や長椅子、壁に懸かっているナポレオン一世の肖像画、彫刻のある黒檀の大きな書棚、鏡のついた大理石の煖炉、それからその上に載っている父親の遺愛の松の盆栽――すべてがある古い新しさを感じさせる、陰気なくらいけばけばしい、もう一つ形容す・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・聞くに堪えないような若者どもの馬鹿話も自然と陰気な気分に押えつけられて、動ともすると、沈黙と欠伸が拡がった。「一はたりはたらずに」 突然仁右衛門がそういって一座を見廻した。彼れはその珍らしい無邪気な微笑をほほえんでいた。一同は彼れの・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ 夫が出てしまうと、奥さんは戸じまりをして、徐かに陰気らしく、指の節をこちこちと鳴らしながら、部屋へ帰った。 * * * 外の摸様はもうよほど黎明らしくなっている。空はしら・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・それだから貴女はついぞ、ふさいだ、陰気な、私の屈託顔を見た事はないんです。 ねえ。 先刻もいう通り、私の死んでしまった方が阿母のために都合よく、人が世話をしようと思ったほどで、またそれに違いはなかったんですもの。 実際私は、貴女・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・座敷の縁側を通り過ぎて陰気な重苦しい土蔵の中に案内されると、あたかも方頷無髯の巨漢が高い卓子の上から薄暗いランプを移して、今まで腰を掛けていたらしい黒塗の箱の上の蒲団を跳退けて代りに置く処だった。 一応初対面の挨拶を済まして部屋の四周を・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・そして店の主人と一しょに、裏の陰気な中庭へ出た。その時女は、背後から拳銃を持って付いて来る主人と同じように、笑談らしく笑っているように努力した。 中庭の側には活版所がある。それで中庭に籠っている空気は鉛のがする。この辺の家の窓は、五味で・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・ そして、海の中に身を投げて死ぬほどの勇気もなく、いたずらに、醜く年を取って木の枯れるように死んでしまうことが、その美しい死に較べたら、どんなにか陰気で、また暗い事実でありましたでしょう? 日が沈むころになると、毎日のように、海岸を・・・ 小川未明 「明るき世界へ」
・・・麹町三番町に住んでいた時なので、其家の間取というのは、頗る稀れな、一寸字に書いてみようなら、恰も呂の字の形とでも言おうか、その中央の棒が廊下ともつかず座敷ともつかぬ、細長い部屋になっていて、妙に悪るく陰気で暗い処だった。そして一方の間が、母・・・ 小山内薫 「女の膝」
・・・それが妙に陰気くさいのだ。また、大学病院の建物も橋のたもとの附属建築物だけは、置き忘れられたようにうら淋しい。薄汚れている。入口の階段に患者が灰色にうずくまったりしている。そんなことが一層この橋の感じをしょんぼりさせているのだろう。川口界隈・・・ 織田作之助 「馬地獄」
出典:青空文庫