・・・ 田代君は椅子に腰を下すと、ほとんど物思わしげなとも形容すべき、陰鬱な眼つきになりながら、私にも卓子の向うの椅子へかけろと云う手真似をして見せた。「ほんとうですか。」 私は椅子へかけると同時に、我知らず怪しい声を出した。田代君は・・・ 芥川竜之介 「黒衣聖母」
・・・が、その内に泰さんは勇気を振い起したと見えて、今まで興奮し切っていた反動か、見る見る陰鬱になり出したお敏に向って、「その間の事は何一つまるで覚えていないのですか。」と、励ますように尋ねたそうです。と、お敏は眼を伏せて、「ええ、何も――」と答・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・しかし三人とも声は立てずに死のように静かで陰鬱だった。クララは芝生の上からそれをただ眺めてはいられなかった。口まで泥の中に埋まって、涙を一ぱいためた眼でじっとクララに物をいおうとする三人の顔の外に、果てしのないその泥の沼には多くの男女の頭が・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・忘れる事の出来ないいくつかの顔は、暗い停車場のプラットフォームから私たちに名残りを惜しんだ。陰鬱な津軽海峡の海の色も後ろになった。東京まで付いて来てくれた一人の学生は、お前たちの中の一番小さい者を、母のように終夜抱き通していてくれた。そんな・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・しかるに矛盾に生き、相愛さなければならぬと知りながら、日々、陰鬱なる闘争を余儀なくさせられるのは、抑も、誰の意志なのか? これ、自からの信仰に生きずして、権力に、指導されるからではあるまいか。・・・ 小川未明 「自由なる空想」
・・・青年たちに直接に、自分として持ってきたすべてを捧げたい――そうしたところに自分の救いの道があるのではあるまいか、などと、いつものアル中的空想に囚われたりしたが、結局自分はその晩の光景に圧倒され、ひどく陰鬱な狂おしいような気持で、十二時近く外・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・その顔には浮世の苦労が陰鬱に刻まれていた。彼はひと言も物を言わずに箸を動かしていた。そしてその顔色の悪い子供も黙って、馴れない手つきで茶碗をかきこんでいたのである。彼はそれを見ながら、落魄した男の姿を感じた。その男の子供に対する愛を感じた。・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・またある一人は「君はどこに住んでも直ぐその部屋を陰鬱にしてしまうんだな」と言った。 いつも紅茶の滓が溜っているピクニック用の湯沸器。帙と離ればなれに転っている本の類。紙切れ。そしてそんなものを押しわけて敷かれている蒲団。喬はそんなな・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・それが実にいやな変な奴なのである。陰鬱な顔をしている。河鹿のような膚をしている。そいつが毎夜極った時刻に溪から湯へ漬かりに来るのである。プフウ! なんという馬鹿げた空想をしたもんだろう。しかし私はそいつが、別にあたりを見廻すというのでもなく・・・ 梶井基次郎 「温泉」
一 この頃の陰鬱な天候に弱らされていて手紙を書く気にもなれませんでした。以前京都にいた頃は毎年のようにこの季節に肋膜を悪くしたのですが、此方へ来てからはそんなことはなくなりました。一つは酒類を飲まなくなったせいかも知れません。然・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
出典:青空文庫