・・・ 慎太郎は険しい顔をしたまま、始めて話に口を挟んだ。博士はそれが意外だったように、ちらりと重そうなまぶたの下から、慎太郎の顔へ眼を注いだ。「今はとても動かせないです。まず差当りは出来る限り、腹を温める一方ですな。それでも痛みが強いよ・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・ 牧野は険しい眼をしながら、やけに葉巻をすぱすぱやった。お蓮は寂しい顔をしたなり、しばらくは何とも答えなかった。 十「あの白犬が病みついたのは、――そうそう、田宮の旦那が御見えになった、ちょうどその明くる日・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
ある時雨の降る晩のことです。私を乗せた人力車は、何度も大森界隈の険しい坂を上ったり下りたりして、やっと竹藪に囲まれた、小さな西洋館の前に梶棒を下しました。もう鼠色のペンキの剥げかかった、狭苦しい玄関には、車夫の出した提灯の・・・ 芥川竜之介 「魔術」
・・・だから私は腹の底に依然として険しい感情を蓄えながら、あの霜焼けの手が硝子戸を擡げようとして悪戦苦闘する容子を、まるでそれが永久に成功しない事でも祈るような冷酷な眼で眺めていた。すると間もなく凄じい音をはためかせて、汽車が隧道へなだれこむと同・・・ 芥川竜之介 「蜜柑」
・・・が、新蔵はそう聞いた所で、泰さんの云う事には得心出来ても、お敏の安否を気使う心に変りのある筈はありませんから、まだ険しい表情を眉の間に残したまま、「それにしても君、お敏の体に間違いのあるような事はないだろうね。」と、突っかかるように念を押す・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・雨の音で消されてしまうくらいの小さな声で言って、娘は飛びつくように、レインコートにくるまってしまうと、ほっとしたようだったが、しかし、なお恐怖の去らぬらしい険しい表情を、眉に見せて、「…………」 小沢にすがりついて、ガタガタ顫えてい・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・ 痩せて、骸骨のような、そして険しい目つきの爺さんが、山高をアミダにかむり、片手に竹の棒を握って崖の下へやって来た。「おい、こらッ!」 大きな腹をなげ出して横たわっている牝豚を見つけて、彼は棒でゴツ/\尻を突ついた。 豚は「・・・ 黒島伝治 「豚群」
・・・ やがて二人は石ころや木株のある険しい坂道にかかりましたので、おかあさんは子どもを抱きましたが、なかなか重い事でした。 この子どもの左足はたいへん弱くって、うっかりすると曲がってしまいそうだから、ひどく使わぬようにしなければならぬと・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・それでも髪を櫛巻に結った顔色の妙に黄色いその女と、目つきの険しい男とをこの出刃庖丁と並べて見た時はなんだか不安なような感じがした。これに反して私の鋏がなんだか平和な穏やかなもののように思われた。 長い鋏をぶら下げて再び暗い屋敷町へはいっ・・・ 寺田寅彦 「芝刈り」
・・・呉服売場や陳列棚の前で見るような恐ろしい険しい顔はあまりなくって、非常に人間らしい親しみのある顔が大部分を占めている。この食堂を発案したのはだれだか知らないが、その人はいろいろな意味でえらい人のように思われる。 食堂のほかには食品を販売・・・ 寺田寅彦 「丸善と三越」
出典:青空文庫