・・・あの頃は私も、随分、呑気なところのある子供でした。世の中も亦、私達を呑気に甘えさせてくれていました。私は、三島に行って小説を書こうと思って居たのでした。三島には高部佐吉さんという、私より二つ年下の青年が酒屋を開いて居たのです。佐吉さんの兄さ・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・ 勿論ポルジイの品行は随分ひどい。しかし女達に追い廻されている男だと云う所を酌量して遣らなくてはならない。馬は目醒ましい上手である。その外青年貴族のするような事には、何にも熟錬している。馬の体の事は、毛櫛が知っているより好く知っている。・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・十二キロメエトル歩いたあとだからおれは随分くたびれていて、すぐ寝入った。そうすると間もなく戸を叩くものがある。戸口から手が覗く。袖の金線でボオイだということが分かる。その手は包みを提げているのである。おれは大熱になった。おれの頭から鹿の角が・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・して考えてみなければならない場合も随分ありはしまいか、そうしてみて始めて問題が正当な光に照らされるような事がありはしまいか。こんな事も思ってみたのである。 ドイツの下宿屋で、室に備え付けの洗面鉢を過ってこわしたある日本人が、主婦に対して・・・ 寺田寅彦 「ある日の経験」
・・・亜鉛屋根にパラパラと来る雨の音が聞えなくなりましたからね、随分不断に使った躯ですよ。若い時分にゃ宇都宮まで俥ひいて、日帰りでしたからね。あアお午後ぶらぶらと向を出て八時なら八時に数寄屋橋まで著けろと云や、丁と其時間に入ったんでさ。……ああ、・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・総じて幸徳らに対する政府の遣口は、最初から蛇の蛙を狙う様で、随分陰険冷酷を極めたものである。網を張っておいて、鳥を追立て、引かかるが最期網をしめる、陥穽を掘っておいて、その方にじりじり追いやって、落ちるとすぐ蓋をする。彼らは国家のためにする・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・人家の中には随分いかめしい門構に、高くセメントの塀を囲らしたところもあるが、大方は生垣や竹垣を結んだ家が多いので、道行く人の目にも庭や畠に咲く花が一目に見わたされる。そして垣の根方や道のほとりには小笹や雑草が繁り放題に繁っていて、その中には・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・とようやく一方に活路を開く。随分苦しい開き方だと一人で肚の中で考える。「それでは、私に御用じゃないの」と御母さんは少々不審な顔つきである。「ええ」「もう用を済ましていらしったの、随分早いのね」と露子は大に感嘆する。「いえ、ま・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・ 若子さんは小さな声で、『兄さん、彼女の方は随分ですわねえ。』『女だから可いさ。』と、御兄さんは気にも御止めなさらない様でした。 其時、私は不図あの可哀相な――私が何となくそう思った――乳呑子を懐いた女の人を見出したのです。それ・・・ 広津柳浪 「昇降場」
・・・きょうなんぞもやったのだ。随分骨が折れて、それほどの役には立たねえ。きまって出ている場所と、きまってくれるお得意とがなけりゃあ、この商売は駄目だ。どうせ貧乏人は皆くたばるのだ。皆そう云っていらあ。ひどい奴等だよ、金持と云う奴等は。」「な・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
出典:青空文庫