・・・「私は実はこちらを拝見するのははじめてで、帳場に任して何もさせていたもんでございますから、……もっとも報告は確実にさせていましたからけっしてお気に障るような始末にはなっていないつもりでございますが、なにしろ少し手を延ばして見ますと、体が・・・ 有島武郎 「親子」
・・・トンミイ、フレンチ君が、糊の附いた襟が指に障るので顫えながら、嵌まりにくいシャツの扣鈕を嵌めていると、あっちの方から、鈍い心配気な人声と、ちゃらちゃらという食器の触れ合う音とが聞える。「あなた、珈琲が出来ました。もう五時です。」こう云う・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・ お米が気の弱い臆病ものの癖に、ちょっと癇持で、気に障ると直きつむりが疼み出すという風なんですから堪りませんや。 それでもあの爺の、むかしむかしを存じておりますれば、劫経た私どもでさえ、向面へ廻しちゃあ気味の悪い、人間には籍のないよ・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・年紀の頃は十九か二十歳、色は透通る程白く、鼻筋の通りました、窶れても下脹な、見るからに風の障るさえ痛々しい、葛の葉のうらみがちなるその風情。 八 高が気病と聞いたものが、思いの外のお雪の様子、小宮山はまず哀れさが・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・「癪に障るからなあ、――一寸ましな娘はみんなモグラの奴が引っかけて行っちまいやがるんだ。」大西は窓から眼をはなさなかった。「あいつらが偽札を掴ましてるんが、露助に分らんのかな。」「俺等にゃ、その掴ます偽札も有りゃしないや。」・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・そうしてじいっとして坐っていて落ち着き払って、黙っているのが癪に障るわ。今の月が上弦だろうが下弦だろうが、今夜がクリスマスだろうが、新年だろうが、外の人間が為合せだろうが、不為合せだろうが構わないという風でいるのね。人を可哀いとも思わなけれ・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
・・・手には例の癪に障る包みを提げている。二三度そっと落してみた。すぐに誰かが拾って、にこにこした顔をしておれに渡してくれる。おれは方々見廻した。どこかに穴か、溝か、畠か、明家がありはしないかと思ったのである。そんな物は生憎ない。どこを見ても綺麗・・・ 著:ディモフオシップ 訳:森鴎外 「襟」
・・・丈長き黒髪がきらりと灯を受けて、さらさらと青畳に障る音さえ聞える。「南無三、好事魔多し」と髯ある人が軽く膝頭を打つ。「刹那に千金を惜しまず」と髯なき人が葉巻の飲み殻を庭先へ抛きつける。隣りの合奏はいつしかやんで、樋を伝う雨点の音のみが高・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・気のせいか当人は学士になってから少々肥ったように見えるのが癪に障る。机の上に何だか面白そうな本を広げて右の頁の上に鉛筆で註が入れてある。こんな閑があるかと思うと羨ましくもあり、忌々しくもあり、同時に吾身が恨めしくなる。「君は不相変勉強で・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・はいかなる潮流が横わりつつあるか、英国には武士という語はないが紳士と〔いう〕言があって、その紳士はいかなる意味を持っているか、いかに一般の人間が鷹揚で勤勉であるか、いろいろ目につくと同時にいろいろ癪に障る事が持ち上って来る。時には英吉利がい・・・ 夏目漱石 「倫敦消息」
出典:青空文庫