・・・ 月や太陽が三十メートルさきの隣家の屋根にのっかっている品物であったらそれはたしかに盆大である。しかし実際は二億二千八百万キロメートルの距離にある直径百四十万キロメートルの火の玉である。 ヘルムホルツは薄暮に眼前を横ぎった羽虫を見て・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・下女がいなければ、隣家へ饋ればよいという人があるかも知れぬが、下女さえさびしさに堪兼ねて逃去るような家では、近隣とは交際がない。啻にそれのみではない。わたくしは人の趣味と嗜性との如何を問わず濫に物を饋ることを心なきわざだと考えている。・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・例えば隣家は頻りに繁昌して財産も豊なるに、我家は貧乏の上に不仕合のみ打続く、羨ましきことなり憎らしきことなり、隣翁が何々の方角に土蔵を建てゝ鬼瓦を上げたるは我家を睨み倒さんとするの意なり、彼の土蔵が火事に焼けたらば面白からん、否な人の見ぬ間・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・人事の失望は十に八、九、弟は兄の勝手に外出するを羨み、兄は親爺の勝手に物を買うを羨み、親爺はまた隣翁の富貴自在なるを羨むといえども、この弟が兄の年齢となり、兄が父となり、親爺が隣家の富を得るも、決して自由自在なるに非ず、案に相違の不都合ある・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・無心の小児が父を共にして母を異にするの理由を問い、隣家には父母二人に限りて吾が家に一父二、三母あるは如何などと、不審を起こして詰問に及ぶときは、さすが鉄面皮の乃父も答うるに辞なく、ただ黙して冷笑するか顧みて他を言うのほかなし。即ちその身の弱・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
・・・いきれ人死をると札の立つ秋風や酒肆に詩うたふ漁者樵者鹿ながら山影門に入日かな鴫遠く鍬すゝぐ水のうねりかな柳散り清水涸れ石ところ/″\水かれ/″\蓼かあらぬか蕎麦か否か我をいとふ隣家寒夜に鍋を鳴らす 一句五字ま・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・ 私は眼をあげて、隣家の屋根の斜面に、ころころとふくれて日向ぼっこをして居る六七羽の雀の姿を見た。或ものは、何もあろうと思われない瓦の上を、地味な嘴でつついて居る。 暫く眺めて後、私は、箱に手を入れて一掴みの粟を、勢よく、庭先に撒い・・・ 宮本百合子 「餌」
・・・という昔ながらの封建のしきたりは、どういう偶然で、どんな女を母という強制として一人の娘の運命にさし向けないとも限らないのである。隣家の小母さんであるならば、鬼女もその娘に手をのばしはしなかったろう。母子関係の常套には新しい窓がひらかれる必要・・・ 宮本百合子 「女の手帖」
・・・ 隣家の柄本又七郎は数馬の手のものが門をあける物音を聞いて、前夜結び縄を切っておいた竹垣を踏み破って、駈け込んだ。毎日のように往き来して、隅々まで案内を知っている家である。手槍を構えて台所の口から、つとはいった。座敷の戸を締め切って、籠・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・来られたと云う百人一首やら、お祖父さまが義太夫を語られた時の記念に残っている浄瑠璃本やら、謡曲の筋書をした絵本やら、そんなものを有るに任せて見ていて、凧と云うものを揚げない、独楽と云うものを廻さない。隣家の子供との間に何等の心的接触も成り立・・・ 森鴎外 「サフラン」
出典:青空文庫