・・・これは僕の隣席にいたから何か口実を拵えてはたびたび僕をつねったりした。おまけに杉浦の家の前を通ると狼に似た犬をけしかけたりもした。僕はこの犬に追いつめられたあげく、とうとうある畳屋の店へ飛び上がってしまったのを覚えている。 僕は今漫然と・・・ 芥川竜之介 「追憶」
・・・私は、ここに隣席においでになる、窈窕たる淑女。」 彼は窈窕たる淑女と云った。「この令嬢の袖を、袂をでございます。口へ挟みました旅行革鞄の持主であります。挟んだのは、諸君。」 とみまわす目が空ざまに天井に上ずって、「……申兼ね・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・撮影の前のドサクサにまぎれて、いつのまにやら、ちゃんと最前列の先生の隣席に坐ってニヤリと笑っている。呆れた奴だ。こんなのが大きくなって、掏摸の名人なんかになるものだ。けれども、案外にも、どこか一つ大きく抜けているところがあると見えて、掏摸の・・・ 太宰治 「小さいアルバム」
・・・それが電車の中で隣席に腰かけていて、そうして明晰に爽快なドイツ語でゆっくりゆっくり自分に分かるように話してくれるのである。その話が実に面白い。哲学の講義のようでもあり、また最も実用的な処世訓のようでもあり、どうかするとまた相対性理論や非ユー・・・ 寺田寅彦 「変った話」
・・・そのバタというものの名前さえも知らず、きれいな切り子ガラスの小さな壺にはいった妙な黄色い蝋のようなものを、象牙の耳かきのようなものでしゃくい出してパンになすりつけて食っているのを、隣席からさもしい好奇の目を見張っていたくらいである。その一方・・・ 寺田寅彦 「コーヒー哲学序説」
・・・ ずっと前のことであるが、ある夏の日銀座の某喫茶店に行っていたら、隣席に貧しげな西洋人の老翁がいて、アイスクリームを食っていた。それが、通りかかったボーイを呼び止めて何か興奮したような大声で「カントクサン、呼んでください。カントクサン、・・・ 寺田寅彦 「三斜晶系」
・・・自分は耳がよくないせいか、それとも頭がぼんやりしているせいか、平生はこうした場所で隣席の人たちの話している声はよく聞こえても、話している事がらの内容はちっともわからないのであるが、その日隣席で話している中老人二人の話し声の中でただ一語「イゴ・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・こうしないと芝居にならないものらしい。隣席の奥様がその隣席の御主人に「あれはもと築地に居た女優ですよ。うまいわねえ」と賞讃している。このダンサーは後に昔の情夫に殺されるための役割でこの喜劇に招集されたもので、それが殺されるのはその殺人罪の犯・・・ 寺田寅彦 「初冬の日記から」
・・・富士屋ホテルの案内記のような小冊子をカバンから出して見せたりした。隣席のドイツ人も話しかけて、これから通過する鉄路のループの説明をしてくれたりした。山の腹の中でトンネルが大きな輪を描いていて、汽車は今はいった穴の真上へ出て来るのである。T氏・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・自分も一度運悪くこの難船にぶつかって何かケルクショーズをしなければならないことになったので、そのケルクショーズの思案に苦しんでいたら隣席の若いドイツ人がドイツ語でこっそり「いちばん年とったダーメに花を捧げたまえ」と教えてくれた。幸いにドイツ・・・ 寺田寅彦 「追憶の冬夜」
出典:青空文庫