・・・云うまでもなく汽車は今、横須賀線に多い隧道の最初のそれへはいったのである。 しかしその電燈の光に照らされた夕刊の紙面を見渡しても、やはり私の憂鬱を慰むべく、世間は余りに平凡な出来事ばかりで持ち切っていた。講和問題、新婦新郎、涜職事件、死・・・ 芥川竜之介 「蜜柑」
・・・ごらんなさいましという、言葉が道をつけて、隧道を覗かす状に、遥にその真正面へ、ぱっと電燈の光のやや薄赤い、桂井館の大式台が顕れた。 向う歯の金歯が光って、印半纏の番頭が、沓脱の傍にたって、長靴を磨いているのが見える。いや、磨いているので・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・ 少くとも、あの、絵看板を畳込んで持っていて、汽車が隧道へ入った、真暗な煙の裡で、颯と化猫が女を噛む血だらけな緋の袴の、真赤な色を投出しそうに考えられた。 で、どこまで一所になるか、……稀有な、妙な事がはじまりそうで、危っかしい中に・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・――のそりと立って、黄色い目で、この方をじろりと。」「…………」 声は、カーンと響いて、真暗になった。――隧道を抜けるのである。「思わず畜生! と言ったが夢中で遁げました。水車のあたりは、何にもありません、流がせんせんと響くばか・・・ 泉鏡花 「半島一奇抄」
・・・ 貰いものの葉巻を吹かすより、霰弾で鳥をばらす方が、よっぽど贅沢じゃないか、と思ったけれど、何しろ、木胴鉄胴からくり胴鳴って通る飛団子、と一所に、隧道を幾つも抜けるんだからね。要するに仲蔵以前の定九郎だろう。 そこで、小鳥の回向料を・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・ 夜が明けると、一番の上り汽車、これが碓氷の隧道を越えます時、その幾つ目であったそうで。 小宮山は何心なく顔を出して、真暗な道の様子を透していると、山清水の滴る隧道の腹へ、汽車の室内の灯で、その顔が映ったのでありまする、と並んで女の・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・峠の隧道を出るともう半島の南である。私の村へ帰るにも次の温泉へゆくにも三里の下り道である。そこへ来たとき、私はやっと自動車を止めた。そして薄暮の山の中へ下りてしまったのである。何のために? それは私の疲労が知っている。私は腑甲斐ない一人の私・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・堅田隧道の前を左に小径をきり坂を越ゆれば一軒の農家、山の麓にあり。一個の男、一個の妻、二個の少女麦の肥料を丸めいたり。少年あり、藁を積み重ねし間より頭を出して四人の者が余念なく仕事するを余念なくながめいたり。渡頭を渡りて広き野に出ず。野は麦・・・ 国木田独歩 「小春」
・・・贄川より隧道を過ぐるまでの間、山ようやく窄り谷ようやく窮まりて、岨道の岩のさまいとおもしろく、原広く流れ緩きをもて名高き武蔵の国の中にもかかるところありしかと驚かる。されど隧道を過ぐれば趣き変りて、兀げたる山のみ現れ来るもおかし。上りつ下り・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・並木の松もここには始皇をなぐさめえずして、ひとりだちの椎はいたずらに藤房のかなしみに似たり。隧道に一やすみす。この時またみちのりを問うに、さきの答は五十町一里なりけり。とかくして涙ながら三戸につきぬ。床の間に刀掛を置けるは何のためなるにや、・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
出典:青空文庫