・・・そこから見える台所のさきには、美津が裾を端折ったまま、雑巾か何かかけている。――それが彼等の話し声がすると、急に端折っていた裾を下した。彼は真鍮の手すりへ手をやったなり、何だかそこへ下りて行くのが憚られるような心もちがした。「妙な事って・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・袖無しの上へ襷をかけた伯母はバケツの雑巾を絞りながら、多少僕にからかうように「お前、もう十二時ですよ」と言った。成程十二時に違いなかった。廊下を抜けた茶の間にはいつか古い長火鉢の前に昼飯の支度も出来上っていた。のみならず母は次男の多加志に牛・・・ 芥川竜之介 「年末の一日」
・・・仁右衛門はだらんと下げた右手に斧をぶらさげたまま、妻は雑巾のように汚い布巾を胸の所に押しあてたまま、憚るように顔を見合せて突立っていた。「ここへ来う」 やがて仁右衛門は呻くように斧を一寸動かして妻を呼んだ。 彼れは妻に手伝わせて・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・案の定、お前さん、ちょうど祈祷の最中、思い合してみますれば、瓦が揺れたのを見ましたのとおなじ時、次のお座敷で、そのお勢というのに手伝って、床の間の柱に、友染の襷がけで艶雑巾をかけていたお米という小間使が、ふっと掛花活の下で手を留めて、活けて・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・姉はこんな日でなくては家の掃除も充分にできないといって、がたひち音をさせ、家のすみずみをぐるぐる雑巾がけをする。丹精な人は掃除にまで力を入れるのだ。 朝飯が済む。満蔵は米搗き、兄は俵あみ、省作とおはまは繩ない、姉は母を相手にぼろ繕いらし・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・僕が居なくなってから二十日許り経って十一月の月初めの頃、民子も外の者と野へ出ることとなって、母が民子にお前は一足跡になって、座敷のまわりを雑巾掛してそれから庭に広げてある蓆を倉へ片づけてから野へゆけと言いつけた。民子は雑巾がけをしてからうっ・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・ 正月の何日頃であったか、表の呉縁に朝日が暖くさしてる所で、自分が一人遊んで居ると、姉が雑巾がけに来て「坊やはねえやが居なくても姉さんが可愛がってあげるからね」と云ったら「ねえやなんか居なくたってえいや」と云ってたけれど、目には涙を溜め・・・ 伊藤左千夫 「守の家」
・・・更に突飛なのは、六十のお婆さんまでが牛に牽かれて善光寺詣りで娘と一緒にダンスの稽古に出掛け、お爨どんまでが夜業の雑巾刺を止めにして坊ちゃんやお嬢さんを先生に「イット、イズ、エ、ドッグ」を初めた。 いよいよ出でて益々突飛なるは新学の林大学・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・わずかに、中之島界隈や御堂筋にありし日の大阪をしのぶ美しさが残っているだけで、あとはどこもかしこも古雑巾のように汚ない。おまけに、ややこしい。「ややこしい」という言葉を説明することほどややこしいものはない。複雑、怪奇、微妙、困難、曖昧、・・・ 織田作之助 「大阪の憂鬱」
・・・けっして割のわるい話ではない――と、結局、彼等は乾いた雑巾を絞るようにして、二百円の金を工面せざるを得なかった。 その結果集まった金が六千円、うち装飾品の実費一軒あたり七十円に無代進呈の薬の実費が十円すなわち三十軒分で二千四百円をひいた・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
出典:青空文庫