・・・駅の近所でブラブラして時間をつぶし、やっと夜になると駅の地下道の隅へ雑巾のように転ったが、寒い。地下道にある阪神マーケットの飾窓のなかで飾人形のように眠っている男は温かそうだと、ふと見れば、飾窓が一つ空いている。ありがたいと起きて行き、はい・・・ 織田作之助 「世相」
・・・背を焼かれるような悔恨と、捨てられた古雑巾のような疲労! 公園のラジオ塔から流れて来るラジオ体操の単調な掛声は、思いがけず焦躁の響きだったが、私は何もしたくなかった。学校へも行きたくなかった。音楽も聴きたくなかった。映画も芝居も本も、面倒く・・・ 織田作之助 「中毒」
・・・ 吉は勝手の方へ行って、雑巾盥に水を持って来る。すっかり竿をそれで洗ってから、見るというと如何にも良い竿。じっと二人は検め気味に詳しく見ます。第一あんなに濡れていたので、重くなっているべきはずだが、それがちっとも水が浸みていないようにそ・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・堪らなく痛かったが両親に云えば叱られるから、人前だけは跛も曳かずに痩我慢して痛さを耐えてひた隠しに隠して居ましたが、雑巾掛けのときになって前へ屈んで膝を突くのが痛くて痛くてほとほと閉口しました。然し終に其の為めに叱られるには至りませんでした・・・ 幸田露伴 「少年時代」
・・・ 下女は下女で碓のような尻を振立てて縁側を雑巾がけしている。 まず賤しからず貴からず暮らす家の夏の夕暮れの状態としては、生き生きとして活気のある、よい家庭である。 主人は打水を了えて後満足げに庭の面を見わたしたが、やがて足を洗っ・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・タン壺。雑巾。 蓋付きの茶碗二個。皿一枚。ワッパ一箇。箸一ぜん。――それだけ入っている食器箱。フキン一枚。土瓶。湯呑茶碗一個。 黒い漆塗の便器。洗面器。清水桶。排水桶。ヒシャク一個。 縁のない畳一枚。玩具のような足の低い蚊帳。・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・女は、そのあとを追って、死ぬよりほかはないわ、と呟いて、わが身が雑巾のように思われたそうである。 女は、私の友人の画家が使っていたモデル女である。花の衣服をするっと脱いだら、おまもり袋が首にぷらんとさがっていたっけ、とその友人の画家が苦・・・ 太宰治 「あさましきもの」
・・・私は、ごみっぽい雑巾で顔をさかさに撫でられたような思いがした。みな寝しずまったころ、三十歳くらいのヘロインは、ランタアンさげて腐りかけた廊下の板をぱたぱた歩きまわるのであるが、私は、いまに、また、どこか思わざる重い扉が、ばたあん、と一つ、と・・・ 太宰治 「音に就いて」
・・・あなたは私を雑巾みたいに軽蔑なさった。あなたは、悪魔です。」 後日談は無い。 太宰治 「誰」
・・・そのうちにいよいよ今日はという事になって朝のうちに物置の屋根裏から台が取り下ろされ、一年中の塵埃や黴が濡れ雑巾で丁寧に拭い清められ、それから裏庭の日蔭で乾かされる。そしていよいよ夕方になってから中庭に持ち出されると、それで始めて私の家に本当・・・ 寺田寅彦 「小さな出来事」
出典:青空文庫