・・・一年半の滞在中たった一度だけはいって見たが、見たものの記憶はもう雑然として大抵消えてしまっている。ツェペリン飛行船が舞台の真中に着陸する、その前でロココ時代の宮庭と現代の世界との混合したような夢幻の光景が渦を巻いたといったような気がするだけ・・・ 寺田寅彦 「マーカス・ショーとレビュー式教育」
・・・よく考えると何にもないのに、通俗では森羅万象いろいろなものが掃蕩しても掃蕩しきれぬほど雑然として宇宙に充じゅうじんしている。戸張君ではないが天地前にあり、竹風ここにありと云いたくなるくらいであります。――なぜこんな矛盾が起ったのであろうか。・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・ 柔い色のオール・バックの髪や、芸術観賞家らしい眼付が、雑然とした宿屋の周囲と、如何にも不調和に見えたのである。始め、彼はAを思い出さないように見えた。何となく知ろうと努め、一方用心しているように感ぜられ、自分の私かな期待を裏切って、初・・・ 宮本百合子 「思い出すこと」
・・・ 区画整理が始まって、駒形通りは工場裏のように雑然としている。「無くなっちゃったかな――この模様じゃあぶないな。――あれがないとプログラムが変るんだが……」「どこです」「え?」 私はたのしみの為にわざと返事を明かにせず行・・・ 宮本百合子 「九月の或る日」
・・・春の頃は空の植木鉢だの培養土だのがしかし呑気に雑然ころがっていた古風な大納屋が、今見れば米俵が軋む程積みあげられた貯蔵所になっていて、そこから若い棕梠の葉を折りしいてトロッコのレールが敷かれている。台の下に四輪車のついたものが精米をやってい・・・ 宮本百合子 「この初冬」
・・・よせ芸人一、神田辺の日本下宿一、彼の部屋の雑然さ一、下宿の女中、片ことの日本語 英語の会話、女中たちのエクサイトメント一、パオリの幸福 父娘の散策 人のよい気の小さい若い好奇心のある父、 娘、タイ・・・ 宮本百合子 「一九二五年より一九二七年一月まで」
・・・市中との間は、都会の外廓につきものの雑然さの中にある。私共は大浦の天主堂にいるうちに、天候が定ったらしいので俄に思い立ち、大浦停留場から電車に乗ったのであった。 終点から、細い川沿いに、車掌の教えてくれた通り進んだが、程なく二股道に出た・・・ 宮本百合子 「長崎の印象」
・・・ 所が、東京は全く雑然としている。お召の側らにけばけばしい洋装がいるかと思えば、季節外れの衣裳を平気で身に附けている者がある。だから、京都は統一はあるが婦人の個性は失われている。東京は統一がない代りに、各自その人の個性がはっきり掴み取れ・・・ 宮本百合子 「二つの型」
・・・ しかし危険はこれらの一切が雑然としている所にあります。そこには全体を支配し統一するテエマがありません。従ってすべてがバラバラです。つまらない芽を大きくするためにいい芽がたくさん閑却されても、それを不当だとして罰する力はないのです。・・・ 和辻哲郎 「すべての芽を培え」
・・・もちろんそこにはわれわれの思いも及ばない旺盛な記憶力が伴なっているのではあろうが、しかし記憶力だけではかえって雑然としてまとまりがつかないであろう。雑多な記憶材料に一定の方向を与え、それを整然とした形に結晶させた力は、あくまでも探求心である・・・ 和辻哲郎 「露伴先生の思い出」
出典:青空文庫