・・・ 西新井橋の人通りは早くも千住大橋の雑沓を予想させる。放水路の流れはこの橋の南で、荒川の本流と相接した後、忽ち方向を異にし、少しく北の方にまがり、千住新橋の下から東南に転じて堀切橋に出る。橋の欄干に昭和六年九月としてあるので、それより以・・・ 永井荷風 「放水路」
・・・先生の生活はそっと煤煙の巷に棄てられた希臘の彫刻に血が通い出したようなものである。雑鬧の中に己れを動かしていかにも静かである。先生の踏む靴の底には敷石を噛む鋲の響がない。先生は紀元前の半島の人のごとくに、しなやかな革で作ったサンダルを穿いて・・・ 夏目漱石 「ケーベル先生」
・・・間万事漱石の自転車で、自分が落ちるかと思うと人を落す事もある、そんなに落胆したものでもないと、今日はズーズーしく構えて、バタシー公園へと急ぐ、公園はすこぶる閑静だが、その手前三丁ばかりのところが非常の雑沓な通りで、初学者たる余にとっては難透・・・ 夏目漱石 「自転車日記」
・・・ 街は人出で賑やかに雑鬧していた。そのくせ少しも物音がなく、閑雅にひっそりと静まりかえって、深い眠りのような影を曳いてた。それは歩行する人以外に、物音のする車馬の類が、一つも通行しないためであった。だがそればかりでなく、群集そのものがま・・・ 萩原朔太郎 「猫町」
・・・ これ等の声の雑踏の中に、赤煉瓦を越えて向うの側から、一つの演説が始められた。 ――諸君、善良なる諸君、われわれは今、刑務所当局に対して交渉中である! 同志諸君の貴重なる生命が、腐敗した罐詰の内部に、死を待つために故意に幽閉されてあ・・・ 葉山嘉樹 「牢獄の半日」
・・・花盛りの休日、向島の雑鬧は思いやられるので、母の上は考えて見ると心配にならんでもなかったが、夕刻には恙なく帰られたので、予は嬉しくて堪らなかった。たらちねの花見の留守や時計見る 内の者の遊山も二年越しに出来たので、予に取っても病苦の・・・ 正岡子規 「病牀苦語」
・・・ お二人は雑沓の通りを過ぎて行かれました。 須利耶さまが歩きながら、何気なく云われますには、(どうだ、今日の空の碧いことは、お前がたの年は、丁度今あのそらへ飛びあがろうとして羽をばたばた云 童子が大へんに沈んで答えられました・・・ 宮沢賢治 「雁の童子」
・・・、という字を戴いた雑誌その他の出版物は、紙の払底や印刷工程の困難をかきわけつつ、雑踏してその発刊をいそいでいる。 しかし、奇妙なことに、そういう一面の活況にもかかわらず、真の日本文化の高揚力というものが、若々しいよろこびに満ちた潮鳴りと・・・ 宮本百合子 「歌声よ、おこれ」
・・・ ゴーデルヴィルの市場は人畜入り乱れて大雑踏をきわめている。この群集の海の表面に現われ見えるのは牛の角と豪農の高帽と婦人の帽の飾りである。喚ぶ声、叫ぶ声、軋る声、相応じて熱閙をきわめている。その中にも百姓の強壮な肺の臓から発する哄然たる・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・ こう云う日に目貫の位置にある船宿一軒を借切りにしたものと見えて、しかもその家は近所の雑沓よりも雑沓している。階上階下とも、どの部屋にも客が一ぱい詰め掛けている。僕は人の案内するままに二階へ升って、一間を見渡したが、どれもどれも知らぬ顔・・・ 森鴎外 「百物語」
出典:青空文庫