・・・しかし手離すことだけは、ごめん蒙りたい」と言ったそうです。それがまた気を負った煙客翁には、多少癇にも障りました。何、今貸してもらわなくても、いつかはきっと手に入れてみせる。――翁はそう心に期しながら、とうとう秋山図を残したなり、潤州を去るこ・・・ 芥川竜之介 「秋山図」
・・・が、それだけなら、ともかくも金で埓の開く事ですが、ここにもう一つ不思議な故障があるのは、お敏を手離すと、あの婆が加持も占も出来なくなる。――と云うのは、お島婆さんがいざ仕事にとりかかるとなると、まずその婆娑羅の大神をお敏の体に祈り下して、神・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・ この刹那から後は、フレンチはこの男の体から目を離すことが出来ない。この若々しい、少しおめでたそうに見える、赤み掛かった顔に、フレンチの目は燃えるような、こらえられない好奇心で縛り附けられている。フレンチのためには、それを見ているのが、・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・ 蘆の軸に、黒斑の皮を小袋に巻いたのを、握って離すと、スポイト仕掛けで、衝と水が迸る。 鰒は多し、また壮に膳に上す国で、魚市は言うにも及ばず、市内到る処の魚屋の店に、春となると、この怪い魚を鬻がない処はない。 が、おかしな売方、・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・七貫や八貫で手離すには当りゃせん。本屋じゃ幾干に買うか知れないけれど、差当り、その物理書というのを求めなさる、ね、それだけ此処にあれば可い訳だ、と先ず言った訳だ。先方の買直がぎりぎりの処なら買戻すとする。……高く買っていたら破談にするだ、ね・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・(掴ひしぐがごとくにして突離す。初の烏、どうと地に座す。三羽の烏はわざとらしく吃驚の身振地を這う烏は、鳴く声が違うじゃろう。うむ、どうじゃ。地を這う烏は何と鳴くか。初の烏 御免なさいまし、どうぞ、御免なさいまし。紳士 ははあ、御免な・・・ 泉鏡花 「紅玉」
・・・女が手を離すのと、笊を引手繰るのと一所で、古女房はすたすたと土間へ入って行く。 私は腕組をしてそこを離れた。 以前、私たちが、草鞋に手鎌、腰兵粮というものものしい結束で、朝くらいうちから出掛けて、山々谷々を狩っても、見た数ほどの蕈を・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・さて行かんとして、お蔦衝と一方に身を離す。早瀬 どこへ行く。お蔦 一人々々両側へ、別れたあとの心持を、しみじみ思って歩行いてみますわ。早瀬 (頷お蔦 でも、もう我慢がし切れなくなって、私もしか倒れたら、駈けつけて下さ・・・ 泉鏡花 「湯島の境内」
・・・これだけは手離すまいと思っていた一代のかたみの着物を質に入れて来たのだ。質屋の暖簾をくぐって出た時は、もう寺田は一代の想いを殺してしまった気持だった。そして、今日この金をスッてしまえば、自分もまた一代の想いと一緒に死ぬほかはないと、しょんぼ・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・それに、ふと手離すのが惜しくなって、――というのは、私もまた武田さんの驥尾に附してその時計を机の上にのせて置きたくて、到頭送らずじまいになってしまった。 九月の十日過ぎに私はまた上京した。武田さんを訪問すると、留守だった。行方不明だとい・・・ 織田作之助 「四月馬鹿」
出典:青空文庫