・・・ 彼は国境を離れると、すぐに一行に追いついた。一行はその時、ある山駅の茶店に足を休めていた。左近はまず甚太夫の前へ手をつきながら、幾重にも同道を懇願した。甚太夫は始は苦々しげに、「身どもの武道では心もとないと御思いか。」と、容易に承け引・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・ 二十前後の支那人は大机の前を離れると、すうっとどこかへ出て行ってしまった。半三郎は三度びっくりした。何でも今の話によると、馬の脚をつけられるらしい。馬の脚などになった日には大変である。彼は尻もちをついたまま、年とった支那人に歎願した。・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・スコッチの旅行服の襟が首から離れるほど胸を落として、一心不乱に考えごとをしながらも、気ぜわしなくこんな注意をするような父だった。 停車場には農場の監督と、五、六人の年嵩な小作人とが出迎えていた。彼らはいずれも、古手拭と煙草道具と背負い繩・・・ 有島武郎 「親子」
・・・ いや、もう、肝魂を消して、さきに死骸の傍を離れる時から、那須颪が真黒になって、再び、日の暮方の雪が降出したのが、今度行向う時は、向風の吹雪になった。が、寒さも冷たさも猟夫は覚えぬ。ただ面を打って巴卍に打ち乱れる紛泪の中に、かの薙刀の刃・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・ これで安心して、衝と寄りざまに、斜に向うへ離れる時、いま見たのは、この女の魂だったろう、と思うほど、姿も艶に判然して、薄化粧した香さえ薫る。湯上りの湯のにおいも可懐いまで、ほんのり人肌が、空に来て絡った。 階段を這った薄い霧も、こ・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
・・・ 人は身に余裕を覚ゆる時、考えは必ずわれを離れる。「おとよさんちょっとえい景色ねい、おりて見ましょうか、向うの方からこっちを見たら、またきっと面白いよ」「そうですねい、わたしもそう思うわ、早くおりて見ましょう、日のくれないうちに・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・街を離れると、家の数がだんだん少なくなりました。そのとき、途の上で、ちょうど自分と同じ年ごろの少女が、赤ん坊を負って、子守唄をうたっていました。この子守唄を聞くと、歩いてきた少女は、すっかり感心してしまいました。「なんという、情けの深い・・・ 小川未明 「海からきた使い」
・・・ 二人は、急いで、海辺の町を離れると、自分の村をさして帰ったのであります。 その日の夜から、ひどい雨風になりました。二日二晩、暖かな風が吹いて、雨が降りつづいたので、雪はおおかた消えてしまいました。その雨風の後は、いい天気になりまし・・・ 小川未明 「大きなかに」
・・・此れ等の打合せをしようにも、二人が病人の傍を離れる事は到底不可能な事、まして、小声でなんか言おうものなら、例の耳が決して逃してはおきません。 其夜、看護婦は徹夜をしました。私は一時間程横になりましたが、酸素が切れたので買いに走りました。・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・堯が間借り二階の四畳半で床を離れる時分には、主婦の朝の洗濯は夙うに済んでいて、漆喰は乾いてしまっている。その上へ落ちた痰は水をかけても離れない。堯は金魚の仔でもつまむようにしてそれを土管の口へ持って行くのである。彼は血の痰を見てももうなんの・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
出典:青空文庫