・・・ 僕はこのホテルの外へ出ると、青ぞらの映った雪解けの道をせっせと姉の家へ歩いて行った。道に沿うた公園の樹木は皆枝や葉を黒ませていた。のみならずどれも一本ごとに丁度僕等人間のように前や後ろを具えていた。それもまた僕には不快よりも恐怖に近い・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・あの水晶のように明るい雪解けの春の景色はなんともいえませんからね。それまで、私は、あらしや、吹雪の唄でも楽しんできいています。そして、あなたたちが、岩穴の中で、こうもりのおばあさんからきいた、不思議のおとぎばなしを教えてくだされば、私は、西・・・ 小川未明 「しんぱくの話」
・・・二三日前に雪が降って、まだ雪解けの泥路を、女中と話しながら、高下駄でせかせかと歩いて行く彼女の足音を、自分は二階の六畳の部屋の万年床の中で、いくらか心許ない気持で聞いていた。自分の部屋の西向きの窓は永い間締切りにしてあるのだが、前の下宿の裏・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・お彼岸に雪解けのわるい路を途中花屋に寄ったりして祖母につれられてきて、この部屋で痘痕の和尚から茶を出された――その和尚の弟子が今五十いくつかになって後を継いでるわけだった。自分も十五六年前までは暑中休暇で村に帰っていると、五里ほど汽車に乗っ・・・ 葛西善蔵 「父の葬式」
・・・三 往来に雪解けの水蒸気の立つ暖かい日の午後、耕吉、老父、耕太郎、久助爺との四人が、久助爺の村に耕吉には恰好の空家があるというので、揃って家を出かけた。瀬音の高い川沿いの、松並木の断続した馬糞に汚れた雪路を一里ばかりも行った・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・ 雪の降ったあとで郊外に住んでいる自分にはその雪解けが億劫なのであったが、金は待っていた金なので関わずに出かけることにした。 それより前、自分はかなり根をつめて書いたものを失敗に終わらしていた。失敗はとにかくとして、その失敗の仕方の・・・ 梶井基次郎 「泥濘」
・・・けさ、はやく、三木から電話で、戸山が原のことを聞き、男は、いやだねえ、とその踊子の友だちと話合い、とにかく正午に、雪解けのぬかるみを難儀しながら戸山が原にたどりついて、見ると、いましも、シャツ一枚の姿の三木朝太郎は、助七の怪力に遭って、宙に・・・ 太宰治 「火の鳥」
・・・たとえば極貧を現わすために水道の止まった流しに猫の眠っている画面を出すとか、放免された囚人の歓喜を現わすのに春の雪解けの川面を出すとか、よしやそれほどの技巧は用いないまでも、とにかく文学的の言葉をいわゆるフォトジェニックなフィルミッシな表現・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・たとえば紡績機械の流動のリズムと、雪解けの渓流のそれと、またもう一つ綿羊の大群の同じ流れとの交互映出のごときも、いくらかそうである。しかしこういう流動に、さらに貨物車の影がレールの上を走るところなどを重出して、結局何かしら莫大な運動量を持っ・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・ 雪解け後は乾ききったモスクワから来るとそういう風景は、水っぽく寂しく、いかにもヨーロッパ北部の感じだった。 ここにまたネ河が流れている。一九一七年の十月二十五日払暁三時半にはこの河を巡洋艦「アウロラ」がさかのぼって来て、冬宮に砲口・・・ 宮本百合子 「スモーリヌイに翻る赤旗」
出典:青空文庫