・・・荒物屋を兼ねた居酒屋らしい一軒から食物の香と男女のふざけ返った濁声がもれる外には、真直な家並は廃村のように寒さの前にちぢこまって、電信柱だけが、けうとい唸りを立てていた。彼れと馬と妻とは前の通りに押黙って歩いた。歩いては時折り思い出したよう・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・…… 夜は更けたが、寒さに震えるのではない、骨まで、ぐなぐなに酔っているので、ともすると倒りそうになるのを、路傍の電信柱の根に縋って、片手喫しに立続ける。「旦那、大分いけますねえ。」 膝掛を引抱いて、せめてそれにでも暖りたそうな・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
ある日の晩方、赤い船が、浜辺につきました。その船は、南の国からきたので、つばめを迎えに、王さまが、よこされたものです。 長い間、北の青い海の上を飛んだり、電信柱の上にとまって、さえずっていましたつばめたちは、秋風がそよそよと吹いて・・・ 小川未明 「赤い船とつばめ」
・・・すると、赤い鳥は、すぐみんなの頭の上の電信柱にきて止まりました。「おい、あの鳥を手に捕まえてみせろ。」と、このとき、見ていた一人がいいました。「私には、あの鳥を捕まえることもできますが、今日はそんなことをいたしません。」と、子供は答・・・ 小川未明 「あほう鳥の鳴く日」
・・・「おれは電信柱だ。」と、雲突くばかりの大男は、腰をかがめて小声でいった。「ああ、電信柱か、なんでいまごろ歩くのだ。」と、妙な男は聞いた。 電信柱はいうに、昼間は人通りがしげくて、俺みたいな大きなものが歩けないから、いまごろいつも・・・ 小川未明 「電信柱と妙な男」
・・・途々、電信柱に関東大震災の号外が生々しく貼られていた。 西日の当るところで天婦羅を揚げていた種吉は二人の姿を見ると、吃驚してしばらくは口も利けなんだ。日に焼けたその顔に、汗とはっきり区別のつく涙が落ちた。立ち話でだんだんに訊けば、蝶子の・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・お君はフト電信柱に、「共産党の公判が又始まるぞ。ストライキとデモで我等の前衛を奪カンせよ!」と書かれているビラを見た。ストライキとデモで……お君は口の中でくりかえして見た……我等の前衛を奪カンせよ。――日本中の工場がみんなその為にストライキ・・・ 小林多喜二 「父帰る」
・・・晴れた空には林を越して電信柱が頭だけ見える。 男はてくてくと歩いていく。 田畝を越すと、二間幅の石ころ道、柴垣、樫垣、要垣、その絶え間絶え間にガラス障子、冠木門、ガス燈と順序よく並んでいて、庭の松に霜よけの繩のまだ取られずについてい・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・ 最初河水の汎濫を防ぐために築いた向島の土手に、桜花の装飾を施す事を忘れなかった江戸人の度量は、都会を電信柱の大森林たらしめた明治人の経営に比して何たる相違であろう。 巴里の人たちは今でも日曜日には家族を引連れて郊外の青草の上で葡萄・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・ そこで軽便鉄道づきの電信柱どもは、やっと安心したように、ぶんぶんとうなり、シグナルの柱はかたんと白い腕木を上げました。このまっすぐなシグナルの柱は、シグナレスでした。 シグナレスはほっと小さなため息をついて空を見上げました。空には・・・ 宮沢賢治 「シグナルとシグナレス」
出典:青空文庫