・・・常子は夫を見つめたまま、震える声に山井博士の来診を請うことを勧め出した。しかし彼は熱心に細引を脚へからげながら、どうしてもその勧めに従わない。「あんな藪医者に何がわかる? あいつは泥棒だ! 大詐偽師だ! それよりもお前、ここへ来て俺の体・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・その時のおん悲しみ、その時のおん苦しみ、――我々は今想いやるさえ、肉が震えずにはいられません。殊に勿体ない気のするのは磔木の上からお叫びになったジェズスの最後のおん言葉です。エリ、エリ、ラマサバクタニ、――これを解けばわが神、わが神、何ぞ我・・・ 芥川竜之介 「おしの」
・・・ 母にこう叱られると、兄はさすがに震え声だったが、それでも突かかるように返事をした。「洋一が悪いんです。さきに僕の顔へトランプを叩きつけたんだもの。」「嘘つき。兄さんがさきに撲ったんだい。」 洋一は一生懸命に泣き声で兄に反対・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・ 私は、涙を流し放題に流して、地だんだをふまないばかりにせき立てて、震える手をのばして妹の頭がちょっぴり水の上に浮んでいる方を指しました。 若い男は私の指す方を見定めていましたが、やがて手早く担っていたものを砂の上に卸し、帯をくるく・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・ これだけを言うのにも彼の声は震えていた。しかし日ごろの沈黙に似ず、彼は今夜だけは思う存分に言ってしまわなければ、胸に物がつまっていて、当分は寝ることもできないような暴れた気持ちになってしまっていたのだ。「今日農場内を歩いてみると、・・・ 有島武郎 「親子」
・・・二人は申合せたように両方から近づいて、赤坊を間に入れて、抱寝をしながら藁の中でがつがつと震えていた。しかしやがて疲労は凡てを征服した。死のような眠りが三人を襲った。 遠慮会釈もなく迅風は山と野とをこめて吹きすさんだ。漆のような闇が大河の・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ さて心がら鬼のごとき目をみひらくと、余り強く面を圧していた、ためであろう、襖一重の座敷で、二人ばかりの女中と言葉を交わす夫人の声が、遠く聞えて、遥に且つ幽に、しかも細く、耳の端について、震えるよう。 それも心細く、その言う処を確め・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ と差俯向いた肩が震えた。 あるじは、思わず、火鉢なりに擦り寄って、「飛んだ事を、串戯じゃありません、そ、そ、そんな事をいって、譲さんをどうします。」「だって、だって、貴下がその年、その思いをしているのに、私はあの児を拵えま・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・ 我に返って、良人の姿を一目見た時、ひしと取縋って、わなわなと震えたが、余り力強く抱いたせいか、お浜は冷くなっていた。 こんな心弱いものに留守をさせて、良人が漁る海の幸よ。 その夜はやがて、砂白く、崖蒼き、玲瓏たる江見の月に、奴・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・ 露子の目には、それらの楽器は黙っているのですが、ひとつひとつ、いい、奇しい妙な、音色をたてて、震えているように見えたのであります。そして、晩方など、入り日の紅くさしこむ窓の下で、お姉さまがピアノをお弾きなさるとき、露子は、じっとそのそ・・・ 小川未明 「赤い船」
出典:青空文庫