・・・津波のような音をたてて風のこもる霜枯れの防風林には烏もいなかった。荒れ果てた畑に見切りをつけて鮭の漁場にでも移って行ってしまったのだろう。 昼少しまわった頃仁右衛門の畑に二人の男がやって来た。一人は昨夜事務所にいた帳場だった。今一人は仁・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
段ばしごがギチギチ音がする。まもなくふすまがあく。茶盆をふすまの片辺へおいて、すこぶるていねいにおじぎをした女は宿の娘らしい。霜枯れのしずかなこのごろ、空もしぐれもようで湖水の水はいよいよおちついて見える。しばらく客という・・・ 伊藤左千夫 「河口湖」
・・・露の玉は、そういう葉や、霜枯れ前の皺びた雑草を雨後のようにぬらしていた。 草原や、斜丘にころびながら進んで行く兵士達の軍服は、外皮を通して、その露に、襦袢の袖までが、しっとりとぬれた。汗ばみかけている彼等は、けれども、「止れ!」の号令で・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・わずかばかりの庭も霜枯れて見えるほど、まだ春も浅かった。 私が早く自分の配偶者を失い、六歳を頭に四人の幼いものをひかえるようになった時から、すでにこんな生活は始まったのである。私はいろいろな人の手に子供らを託してみ、いろいろな場所にも置・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・夕焼けの雲の色、霜枯れの野の色を見ては、どうしたらあんな色が出来るだろうと、それが一つの胸を轟かすような望みであった。伯父は画かきになったらどうだと云った事がある。自分も中学に居た頃父にその事を話して、絵を習わせてくれぬかと願った事がしばし・・・ 寺田寅彦 「枯菊の影」
・・・牧牛会社の前までくると日が入りかかって、川端の榎の霜枯れの色が実に美しい。高阪橋を越す時東を見ると、女学生が大勢立っていると思ったが、それは海老茶色の葦を干してあるのであった。 寺田寅彦 「高知がえり」
・・・ それは薄曇りの風の弱い冬日であったが、高知市の北から東へかけての一面の稲田は短い刈株を残したままに干上がって、しかもまだ御形も芽を出さず、落寞として霜枯れた冬田の上にはうすら寒い微風が少しの弛張もなく流れていた。そうした茫漠たる冬田の・・・ 寺田寅彦 「鴫突き」
・・・ 航空気象観測所と無線電信局とがまだ霜枯れの山上に相対立して航空時代の関守の役をつとめている。この辺の山の肌には伊豆地震の名残らしい地割れの痕がところどころにありありと見える。これを見ていると当時の地盤の揺れ方がおおよそどんなものであっ・・・ 寺田寅彦 「箱根熱海バス紀行」
・・・嘗て初夏の夕に来り見た時、まだ苗であった秋花は霜枯れた其茎さえ悉く刈去られて切株を残すばかりとなっていた。そして庭の隅々からは枯草や落葉を燬く烟が土臭いにおいを園内に漲らせていた。 わたくしは友を顧みて、百花園を訪うのは花のない時節に若・・・ 永井荷風 「百花園」
・・・ 道は忽ち静になって人通りは絶え、霜枯れの雑草と枯蘆とに蔽われた空地の中に進入って、更に縦横に分れている。ところどころに泥水のたまった養魚池らしいものが見え、その岸に沿うた畦道に、夫婦らしい男と女とが糸車を廻して綱をよっている。その響が・・・ 永井荷風 「元八まん」
出典:青空文庫