・・・そこは偶然にも以前住んだことのある町に近かった。霜解け、夕凍み、その匂いには憶えがあった。 ひと月ふた月経った。日光と散歩に恵まれた彼の生活は、いつの間にか怪しい不協和に陥っていた。遠くの父母や兄弟の顔が、これまでになく忌わしい陰を帯び・・・ 梶井基次郎 「過古」
・・・ 一匹の痩せ衰えた犬が、霜解けの路ばたで醜い腰付を慄わせながら、糞をしようとしていた。堯はなにか露悪的な気持にじりじり迫られるのを感じながら、嫌悪に堪えたその犬の身体つきを終わるまで見ていた。長い帰りの電車のなかでも、彼はしじゅう崩壊に・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・私はそこの垣の畔、寺の庭、霜解けの道、乗合馬車の中、いたるところに小林君の生きて動いているのを見た。 H町の寺に行くと、いつもきまって私はその墓の前に立った。 そこにはすでに友人たちの立てた自然石の大きな石碑が立てられてあった。そこ・・・ 田山花袋 「『田舎教師』について」
・・・今頃なら霜解けを踏み荒した土に紙屑や布片などが浅猿しく散らばりへばりついている。晴れた日には庭一面におしめやシャツのような物を干す、軒下には缶詰の殻やら横緒の切れた泥塗れの女下駄などがころがっている。雨の日には縁側に乳母車があがって、古下駄・・・ 寺田寅彦 「イタリア人」
・・・広々した畑地に霜解けを踏んで、冬枯れの木立の上に高い蒼空を流れる雲でも見ながら、当もなく歩いていたいと思う。いつもは毎日一日役所の殺風景な薄暗い部屋にのみ籠っているし、日曜と云っても余計な調べ物や内職の飜訳などに追われて、こんな事を考えた事・・・ 寺田寅彦 「枯菊の影」
・・・ 勘次は秋三を一寸睥んだが、また黙って霜解けの湿った路の上へ筵を敷いて上から踏んだ。「さアお前らぼんやりしてんと、どうするのや?」とお霜は云った。「和尚さん呼んで来うまいか。」とお留は云った。「それよか何より棺桶や。棺桶どう・・・ 横光利一 「南北」
出典:青空文庫