・・・のみならず道に敷いた石炭殻も霧雨か露かに濡れ透っていた。僕はまだ余憤を感じたまま、出来るだけ足早に歩いて行った。が、いくら歩いて行っても、枳殻垣はやはり僕の行手に長ながとつづいているばかりだった。 僕はおのずから目を覚ました。妻や赤子は・・・ 芥川竜之介 「死後」
・・・ 昼間ッからの霧雨がしとしと降りになって来たで、皆胴の間へもぐってな、そん時に千太どんが漕がしっけえ。 急に、おお寒い、おお寒い、風邪揚句だ不精しょう。誰ぞかわんなはらねえかって、艫からドンと飛下りただ。 船はぐらぐらとしただが・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・ と笑って、一つ一つ、山、森、岩の形を顕わす頃から、音もせず、霧雨になって、遠近に、まばらな田舎家の軒とともに煙りつつ、仙台に着いた時分に雨はあがった。 次第に、麦も、田も色には出たが、菜種の花も雨にたたかれ、畠に、畝に、ひょろひょ・・・ 泉鏡花 「七宝の柱」
・・・そよ吹く風に霧雨舞い込みてわが面を払えば何となく秋の心地せらる、ただ萌え出ずる青葉のみは季節を欺き得ず、げに夏の初め、この年の春はこの長雨にて永久に逝きたり。宮本二郎は言うまでもなく、貴嬢もわれもこの悲しき、あさましき春の永久にゆきてまたか・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
一日じめじめと、人の心を腐らせた霧雨もやんだようで、静かな宵闇の重く湿った空に、どこかの汽笛が長い波線を引く。さっきまで「青葉茂れる桜井の」と繰り返していた隣のオルガンがやむと、まもなく門の鈴が鳴って軒の葉桜のしずくが風の・・・ 寺田寅彦 「竜舌蘭」
・・・ 午前六時何分かに、鳥栖で乗換る頃には霧雨であった。南風崎、大村、諫早、海岸に沿うて遽しくくぐる山腹から出ては海を眺めると、黒く濡れた磯の巖、藍がかった灰色に打ちよせる波、舫った舟の檣が幾本も細雨に揺れ乍ら林立して居る景色。版画的で、眼・・・ 宮本百合子 「長崎の一瞥」
・・・鳥栖で、午前六時、長崎線に乗換る時には、歩廊を歩いている横顔にしぶきを受ける程の霧雨であった。車室は、極めて空いている。一体、九州も、東海岸をずーっと南に降る線、および鹿児島から北に昇って長崎へ行く列車など、実に閑散なものだ。窓硝子に雨の滴・・・ 宮本百合子 「長崎の印象」
・・・ シアトルに着くと、海岸の町は、一帯の霧雨にくもらされて居た。然し思ったよりもさむくはない。先に、来た時よりは、一階上の部屋に定って、私が立つまで僅か三四日の生活が始められた。 長い間、落付のない汽車旅行許りして来て、ゆっくり物・・・ 宮本百合子 「無題(二)」
出典:青空文庫