夫人堂 神戸にある知友、西本氏、頃日、摂津国摩耶山の絵葉書を送らる、その音信に、なき母のこいしさに、二里の山路をかけのぼり候。靉靆き渡る霞の中に慈光洽き御姿を拝み候。 しかじかと認められぬ。・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・…… 勿体なくも、路々拝んだ仏神の御名を忘れようとした処へ――花の梢が、低く靉靆く……藁屋はずれに黒髪が見え、すらりと肩が浮いて、俯向いて出たその娘が、桃に立ちざまに、目を涼しく、と小戻をしようとして、幹がくれに密と覗いて、此方をば熟と・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・ 面影も、色も靉靆いて、欄間の雲に浮出づる。影はささぬが、香にこぼれて、後にひかえつつも、畳の足はおのずから爪立たれた。 畳廊下を引返しざまに、敷居を出る。……夫人廟の壇の端に、その写真の数々が重ねてあった。 押絵のあとに、時代・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・だからかわいたしみったれた考えを起こさずに、恋する以上は霞の靉靆としているような、梵鐘の鳴っているような、桜の爛漫としているような、丹椿の沈み匂うているような、もしくは火山や深淵の側に立っているような、――つねに死と永遠と美とからはなれない・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・空襲の頻々たるころ、この老桜が纔に災を免れて、年々香雲靉靆として戦争中人を慰めていたことを思えば、また無量の感に打れざるを得ない。しかしこの桜もまた隅田堤のそれと同じく、やがては老い朽ちて薪となることを免れまい。戦敗の世は人挙って米の価を議・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・老人が靉靆の力を借るが如く、わたくしは電車と乗合自動車に乗って向島に行き、半枯れかかっている病樹の下に立って更に珍しくもない石碑の文をよみ、また朽廃した林亭の縁側に腰をかけては、下水のような池の水を眺めて、猶且つ倦まずに半日を送る。 老・・・ 永井荷風 「百花園」
出典:青空文庫