・・・それは静かな真空のような虚無であった。彼には横たわっている妻の顔が、その傍の薬台や盆のように、一個の美事な静物に見え始めた。 彼は二人の間の空間をかつての生き生きとした愛情のように美しくするために、花壇の中からマーガレットや雛罌粟をとっ・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・遠い北国の謎がある。静かな夏の日に、北風が持って来る、あちらの地極世界の沈黙と憂鬱とがある。 己は静かな所で為事をしようと思って、この海岸のある部落の、小さい下宿に住み込んだ。青々とした蔓草の巻き付いている、その家に越して来た当座の、あ・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・ フィンクはこの静かな美しい声に耳を傾けた。そして思わず燃え下がったマッチでその方角を照して見た。なんだかヴェエルで顔をすっかり包んだ女のような姿がちらと見えたらしかった。そのうちマッチは消えて元の闇になった。 フィンクは今の声がま・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
・・・ 僕は少さい内から、まじめで静かだったもんだから、近処のものがあたりまえの子供のあどけなく可愛ところがないといい/\しましたが、どうしたものか奥さまは僕を可愛やとおっしゃらぬ斗りに、しっかり抱〆て下すったことの嬉しさは、忘れられないで、よく・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・ことに彼が沈黙と憂愁との内に静かにうなだれているのを見ると、じっとしていられないような、飛びついて抱いてやりたいような心持ちになります。一つには身にツマされるせいもあるでしょう。しかしこの悲哀は人類の悲哀です。この悲哀にしみじみと心を浸して・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
出典:青空文庫