・・・ 彼は明るさや、静けさ暖かさの故で平和な、楽しい感情に満された。今日が降誕祭だと云うことも、宴会を断ったことも、彼自身が病気だと云うことさえも苦にならなくなって来た。彼は境の扉が二三分すかしてあるのを見つけ、さっきからことりともさせない・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・ 年を取って、もう、かすかな脈が指にふれるばかりのこの人でさえも、あまりの静けさ、あまりの動かない空気の圧迫に驚いて、互に顔を見合わせ、「静だすえなあ。と云うほどであった。 弱い弱い視力を凝らして、堅い字を、罫紙にな・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・ 白みそめる頃からの小雨がまだ止もうともしずに朝明の静けさの中に降って居る。 眠りの不足なのと心に深く喰い込で居る悲しさのために私の顔は青く眼が赤くはれ上って居た。 雨のしとしとと降る裡を今に私共はこ・・・ 宮本百合子 「悲しめる心」
・・・ 夥しい群集に混ってそこを出、買物してから花見小路へ来かかると、夜の通りに一盛りすんだ後の静けさが満ちていた。大きな張りぬきの桜の樹が道に飾りつけてあり、雪洞の灯が、爛漫とした花を本もののように下から照している。 一台の俥が勢よく表・・・ 宮本百合子 「高台寺」
冬の日の静けさは何となく一種異った感じを人に与える。 黄色な日差しがわびしげに四辺にただようて、骨ばかりになった、木の影は、黒い線の様になって羽目にうつって居る。 風もない。木の葉が「かさ」とも「こそ」とも云わない中に、私・・・ 宮本百合子 「霜柱」
・・・ 其は果して淋しさというべきだろうか 静けさなのではないか、 けれども、私は、その立ちのぼる煙の末が、淡く幽かに胸をすぎるとき、滲み出る涙が、眼に映る紛物を、おぼろにかすめさることを拒むことは出来ない。 十日 夜一時・・・ 宮本百合子 「樹蔭雑記」
・・・――私は不意に自分を囲んだあの静けさ、諧調ある自然の沈黙に打れ感動した心持を今だに忘られない。私は、その時ひとりでに六尺ばかりに延びた馬酔木がこんもり左右に連り生え、云うに云われぬ優しい並木路で区切られた草原の一隅を見つけ出した。そこに腰を・・・ 宮本百合子 「宝に食われる」
・・・物音とてはしんしんと耳の痛む静けさと、時には娯楽室からかすかに上るミヌエットと、患者の咳と、花壇の中で花瓣の上に降りかかる忍びやかな噴水の音ぐらいにすぎなかった。そうして、愛は? 愛は都会の優れた医院から抜擢された看護婦たちの清浄な白衣の中・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・行く風が消えるように通りすぎたあとには、――また田畑の色が豊かに黄ばんで来たのを有頂天になって喜んでいるらしいおしゃべりな雀が羽音をそろえて屋根や軒から飛び去って行ったあとには、ただ心に沁み入るような静けさが残ります。葉を打つ雨の単純な響き・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
・・・昔の荒々しい調子、鋭き叫び声は消え失せて柔らかい静けさに変わっている。白い額に起こる影、口のあたりの痙攣、美しい優しい柔らかい声の中の、静かに流れて行くような屈曲。まことに静寂な清浄な、月の光のような芸である。 偉大なるエレオノラ・・・・ 和辻哲郎 「エレオノラ・デュウゼ」
出典:青空文庫