・・・いつかのこちょうが、昔の面影もなく、みじめなみすぼらしいふうをして、しょんぼりとたずねてきました。両方の羽は、暴風にあったとみえて疲れていました。「どうなさったのですか?」と、とこなつの花は、びっくりしてたずねました。「もういわんで・・・ 小川未明 「小さな赤い花」
・・・黙って行方をくらませた女を恨みもせず、その当座女の面影を脳裡に描いて合掌したいくらいだった。……「――うちの禿げ婆のようなものも女だし、あの女のようなのもいるし、女もいろいろですよ」「で、その女がお定だったわけ……?」「三年後に・・・ 織田作之助 「世相」
・・・不憫なほど窶れきった父の死にぎわの面影が眼に刻まれていたが、汽車に乗りこんで私たちはややホッとした気持になった。もうあとは簡単に葬ってきさえすればいいのだ――がさすがに食堂へ行って酒を飲んでくる気にもなれず、睡っておきたいと思いながら睡れも・・・ 葛西善蔵 「父の葬式」
・・・ただいずこともなく誇れる鷹の俤、眉宇の間に動き、一搏して南の空遠く飛ばんとするかれが離別の詞を人々は耳そばだてて聴けど、暗き穴より飛び来たりし一矢深くかれが心を貫けるを知るものなし、まして暗き穴に潜める貴嬢が白き手をや、一座の光景わが目には・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・今でも其の時分の面影を残して居る私塾が市中を捜したらば少しは有るでしょうが、殆ど先ず今日は絶えたといっても宜敷いのです。私塾と云えばいずれ規模の大きいのは無いのですが、それらの塾は実に小規模のもので、学舎というよりむしろただの家といった方が・・・ 幸田露伴 「学生時代」
・・・俺はそれらの落書の匂でもかぐように、そこから何かの面影でも引き出そうとした。「書信室」へ行くと、そこは机でも壁でも一杯に思う存分の落書きがしてある。俺も手紙を書きに行ったときは、必ず何か落書してくることに決めていた。 成る程、俺は独房に・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・会の下相談からまた狂い出し名を変え風俗を変えて元の土地へ入り込み黒七子の長羽織に如真形の銀煙管いっそ悪党を売物と毛遂が嚢の錐ずっと突っ込んでこなし廻るをわれから悪党と名告る悪党もあるまいと俊雄がどこか俤に残る温和振りへ目をつけてうかと口車へ・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・美しい少年の生前の面影はまた、いっそうその死をあわれに見せていた。 末子やお徳は茶の間に集まって、その日の新聞をひろげていた。そこへ三郎が研究所から帰って来た。「あ――一太。」 三郎はすぐにそれへ目をつけた。読みさしの新聞を妹や・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・ いつか、私は、井伏さんと一緒に、所謂早稲田界隈に出かけたことがあったけれども、その時の下宿屋街を歩いている井伏さんの姿には、金魚鉢から池に放たれた金魚の如き面影があった。 私は、その頃まだ学生であった。しかし、早稲田界隈の下宿生活・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・ 過去の面影と現在の苦痛不安とが、はっきりと区画を立てておりながら、しかもそれがすれすれにすりよった。銃が重い、背嚢が重い、脚が重い。腰から下は他人のようで、自分で歩いているのかいないのか、それすらはっきりとはわからぬ。 褐色の道路・・・ 田山花袋 「一兵卒」
出典:青空文庫