・・・と同時に妙子の耳には、丁度銅鑼でも鳴らすような、得体の知れない音楽の声が、かすかに伝わり始めました。これはいつでもアグニの神が、空から降りて来る時に、きっと聞える声なのです。 もうこうなってはいくら我慢しても、睡らずにいることは出来ませ・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・・イリイッチの面構えから眼を外らして、手近な海を見下しながら、草の緑の水が徐ろに高くなり低くなり、黒ペンキの半分剥げた吃水を嘗めて、ちゃぶりちゃぶりとやるのが、何かエジプト人でも奏で相な、階律の単調な音楽を聞く様だと思って居ると、睡・・・ 有島武郎 「かんかん虫」
・・・――そのころの詩というものは、誰も知るように、空想と幼稚な音楽と、それから微弱な宗教的要素のほかには、因襲的な感情のあるばかりであった。自分でそのころの詩作上の態度を振返ってみて、一ついいたいことがある。それは、実感を詩に歌うまでには、ずい・・・ 石川啄木 「弓町より」
・・・ある者、腕車を走らす者、外套を着たものなどを、同一世に住むとは思わず、同胞であることなどは忘れてしまって、憂きことを、憂しと識別することさえ出来ぬまで心身ともに疲れ果てたその家この家に、かくまでに尊い音楽はないのである。「衆生既信伏質直・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・趣味的形式品格的形式を具備しながら其娯楽を味うの資格がないのである、されば今彼等を救済せようとならば、趣味の光明と修養の価値とを教ゆるのが唯一の方便である、品位ある娯楽を茶の湯に限ると云うのではない、音楽美術勿論よい、盆栽園芸大によい、歌俳・・・ 伊藤左千夫 「茶の湯の手帳」
・・・明治四、五年頃、ピヤノやヴァイオリンが初めて横浜へ入荷した時、新らし物好きの椿岳は早速買込んで神田今川橋の或る貸席で西洋音楽機械展覧会を開いた。今聞くと極めて珍妙な名称であるが、その頃は頗るハイカラに響いたので、当日はいわゆる文明開化の新ら・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・カーライルのいったとおり「何でもよいから深いところへ入れ、深いところにはことごとく音楽がある」。実にあなたがたの心情をありのままに書いてごらんなさい、それが流暢なる立派な文学であります。私自身の経験によっても私は文天祥がドウ書いたか、白楽天・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・ 露子は、生まれつき音楽が好きとみえまして、先生が鳴らしなさるオルガンの音を聞きますと、身がふるいたつように思いました。そして、こんないい音のする器械は、だれが発明して、どこの国から、はじめてきたのだろうかと考えました。 ある日、露・・・ 小川未明 「赤い船」
・・・ラヂオがあると見えて、音楽がきこえます。蚊に食われながら聴いていると、やがてそれがすんで、次に落語の放送でした。が、アナウンサーの紹介を聴いたとたん、私は思わず涙を落しました。出演者は思いもかけぬ父の円団治でした。なつかしい父の声、人々は皆・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・私が聴いたのは何週間にもわたる六回の連続音楽会であったが、それはホテルのホールが会場だったので聴衆も少なく、そのため静かなこんもりした感じのなかで聴くことができた。回数を積むにつれて私は会場にも、周囲の聴衆の頭や横顔の恰好にも慣れて、教室へ・・・ 梶井基次郎 「器楽的幻覚」
出典:青空文庫