[補説]「頼」姓の人物
頼杏坪 (らいきょうへい)
頼山陽 (らいさんよう)
頼春水 (らいしゅんすい)
頼三樹三郎 (らいみきさぶろう)
らいきょうへい【頼杏坪】
[1756〜1834]江戸後期の儒学者。安芸 (あき) の人。春水の弟。名は惟柔 (ただなご) 。字 (あざな) は千祺 (せんき) 。別号、春草。漢詩・和歌をよくし、また、広島藩の儒官として教育・治政にも功績があった。著「春草堂集」「芸藩通志」など。
らいさんよう【頼山陽】
[1781〜1832]江戸後期の儒学者・歴史家・漢詩人。大坂の生まれ。春水の長男。名は襄 (のぼる) 。字 (あざな) は子成。18歳のとき江戸に出て経学・国史を学び、のち京都に上って私塾を開き、梁川星巌・大塩平八郎らと交わった。著「日本外史」「日本政記」「山陽詩鈔」など。
らいしゅんすい【頼春水】
[1746〜1816]江戸後期の儒学者。安芸 (あき) の人。山陽の父。杏坪の兄。通称、弥太郎。大坂で儒学を学び、のち広島藩儒官となった。著「芸備孝義伝」など。