・・・と高らかに誦し了って、からからと笑いながら、室の中なる女を顧みる。 竹籠に熱き光りを避けて、微かにともすランプを隔てて、右手に違い棚、前は緑り深き庭に向えるが女である。「画家ならば絵にもしましょ。女ならば絹を枠に張って、縫いにとりま・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・その口ぶりから察すると、なんでもよほどきたない所らしいので、また少し躊躇しかけたが、もとよりこの地へ来て体裁を顧みる必要もない身だから、一晩や二晩はどんなへやで明かしたってかまわないという気になって、このあいだまで重吉のいたというそのへやへ・・・ 夏目漱石 「手紙」
・・・ そこでちょっと留まって、この講話の冒頭を顧みると少々妙であります。最初には私と云うものがあると申しました。あなた方もたしかにおいでになると申しました。そうして、御互に空間と云う怪しいものの中に這入り込んで、時間と云う分らぬものの流れに・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・悲しいかな今のわれらは刻々に押し流されて、瞬時も一所にていかいして、われらが歩んで来た道を顧みる暇を有たない。われらの過去は存在せざる過去の如くに、未来のために蹂躙せられつつある。われらは歴史を有せざる成り上りものの如くに、ただ前へ前へと押・・・ 夏目漱石 「マードック先生の『日本歴史』」
・・・女静かに歌いやんで、ウィリアムの方を顧みる。ウィリアムは瞬きもせず女の顔を打ち守る。「恋に口惜しき命の占を、盾に問えかし、まぼろしの盾」 ウィリアムは崖を飛ぶ牡鹿の如く、踵をめぐらして、盾をとって来る。女「只懸命に盾の面を見給え」と・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・と弟を顧みる。弟はただ「寒い」と答える。「命さえ助けてくるるなら伯父様に王の位を進ぜるものを」と兄が独り言のようにつぶやく。弟は「母様に逢いたい」とのみ云う。この時向うに掛っているタペストリに織り出してある女神の裸体像が風もないのに二三度ふ・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・官用にもせよ商用にもせよ、すべて戸外公共の事に忙しくして家内を顧みるに遑あらず。外には活溌にして内には懶惰、台所の有様を知らず、玄関の事情を知らず、子供の何を喰らい何を着るを知らず、家族召使の何を楽しみ何を苦しむを知らず。早朝に家を出て夜に・・・ 福沢諭吉 「教育の事」
・・・天下の人皆病毒に感ず、流行病は天下の流行にして、西洋諸国また然りとのことなれば、もはや我が身も自ら顧みるに遑あらず、共にその毒に伝染して広く世界の人と病苦死生を与にすべしとて、自暴自棄する者あるべきや。我輩未だその人を見ざるのみならず、その・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
・・・をどんな目にあわせることになったか、また、自分なんかは、と測定した個々の人の文学の才能や人生への確信を、どんな過程で崩壊させていったかという事実を顧みると、惨澹たるものがある。 野蛮な権力は、文学面で狙いをつけた一定の目標にむかって、ほ・・・ 宮本百合子 「ある回想から」
・・・そのいりくんだ縦横のいきさつを明瞭に理解するために、私たちは一応過去にさかのぼって、この三四年来日本の文学が経て来た道のあらましを顧みることが便利であろうと思う。 既に知られているとおり、日本の一般的な社会情勢は昭和六年の秋、満州事変と・・・ 宮本百合子 「今日の文学の展望」
出典:青空文庫