・・・しかしともかくも三十年の学究生活の霞を透して顧みた昔の学生生活の想い出の中には、あるいは一九三四年の学生諸君にも多少の参考になるものがないとも限らない。 明治三十六年に大学を卒業してから今日までの学究生活の間に昔の学生時代の修業がどれだ・・・ 寺田寅彦 「科学に志す人へ」
・・・父親は云う事を聴かないと、家を追出して古井戸の柳へ縛りつけるぞと怒鳴って、爛たる児童の天真を損う事をば顧みなかった。ああ、恐しい幼少の記念。十歳を越えて猶、夜中一人で、厠に行く事の出来なかったのは、その時代に育てられた人の児の、敢て私ばかり・・・ 永井荷風 「狐」
・・・「そのシャロットの方へ――後より呼ぶわれを顧みもせで轡を鳴らして去る。やむなくてわれも従う。不思議なるはわが馬を振り向けんとしたる時、前足を躍らしてあやしくも嘶ける事なり。嘶く声の果知らぬ夏野に、末広に消えて、馬の足掻の常の如く、わが手・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・真の実在とは如何なるものかを究明して、そこからすべての問題を考えるという如きことは顧みられなくなった。今日、人は実践ということを出立点と考える。実践と離れた実在というものはない。単に考えられたものは実在ではない。しかしまた真の実践は真の実在・・・ 西田幾多郎 「デカルト哲学について」
・・・世間或は人目を憚りて態と妻を顧みず、又或は内実これを顧みても表面に疏外の風を装う者あり。たわいもなき挙動なり。夫が妻の辛苦を余処に見て安閑たるこそ人倫の罪にして恥ず可きのみならず、其表面を装うが如きは勇気なき痴漢と言う可し。一 女子少し・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・自分で顧みて見ましても、わたくしのいたした事は余り気の利いた所為だとは申されません。全く子供らしい振舞だったと申してもよろしいかも知れません。しかしそれは一昨日あなたに御挨拶をいたさずに逃げ出そうと決心いたしたのが子供らしいと申すのではござ・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・衆人の攻撃も慮るところにあらず、美は簡単なりという古来の標準も棄てて顧みず、卓然として複雑的美を成したる蕪村の功は没すべからず。 芭蕉の句はことごとく簡単なり。強いてその複雑なるものを求めんか、鶯や柳のうしろ藪の前つゝじ活け・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・如何なれば常に御前に跪き祈りし夫れを顧み給はざるや。余の祭壇には多くの捧物なせる中に最大の一なりし余が laura を捧げたる夫れなりき。而して余は神の供物を再び余のものたらしめんとするなり。汚涜の罪何をもつてかそゝがれんや。ヒソプも亦能は・・・ 宮本百合子 「「或る女」についてのノート」
・・・お場所柄を顧みざるお咎めは甘んじて受ける。乱心などはいたさぬというのである。 権兵衛の答を光尚は聞いて、不快に思った。第一に権兵衛が自分に面当てがましい所行をしたのが不快である。つぎに自分が外記の策を納れて、しなくてもよいことをしたのが・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・私は仕事に力を集中する時愛する者たちを顧みない事があります。私を愛してくれる者はもちろんそれを承知してその集中を妨げないように、もしくはそれを強めるように、力を添えてくれます。しかし自分を犠牲にしてまでそれに尽くしてくれる者はただ一人きりで・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
出典:青空文庫