・・・落人のそれならで、そよと鳴る風鈴も、人は昼寝の夢にさえ、我名を呼んで、讃美し、歎賞する、微妙なる音響、と聞えて、その都度、ハッと隠れ忍んで、微笑み微笑み通ると思え。 深張の涼傘の影ながら、なお面影は透き、色香は仄めく……心地すれば、誰憚・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・ひとびとが宵の寝苦しい暑さをそのまま、夢に結んでいるときに、私はひんやりした風を肌に感じている。風鈴の音もにわかに清い。蝉の声もいつかきこえず、部屋のなかに迷い込んで来た虫を、夏の虫かと思って、団扇ではたくと、ちりちりとあわれな鳴声のまま、・・・ 織田作之助 「秋の暈」
・・・ガラスの簾を売る店では、ガラス玉のすれる音や風鈴の音が涼しい音を呼び、櫛屋の中では丁稚が居眠っていました。道頓堀川の岸へ下って行く階段の下の青いペンキ塗の建物は共同便所でした。芋を売る店があり、小間物屋があり、呉服屋があった。「まからんや」・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・山形の生活、汽車の中、浴衣、西瓜、川、蝉、風鈴。急に、これを持って汽車に乗りたくなってしまう。扇子をひらく感じって、よいもの。ぱらぱら骨がほどけていって、急にふわっと軽くなる。クルクルもてあそんでいたら、お母さん帰っていらした。御機嫌がよい・・・ 太宰治 「女生徒」
・・・雪の日のしじみ売り、いそぐ俥にたおされてえ。風鈴声。そのほかの、あざ笑いの言葉も、このごろは、なくなって、枕もとの電気スタンドぼっと灯って居れば、あれは五時まえ、消えて居れば、しめた五時半、ものも言わず蚊帳を脱けだし、兵古帯ひきずり、一路、・・・ 太宰治 「創生記」
・・・入口の風鈴の音わすれ難く、小用はたしながら、窓外の縁日、カアバイド燈のまわりの浴衣着たる人の群ながめて、ああ、みんな生きている、と思って涙が出て、けれども、「泣かされました」など、つまらぬことだ、市民は、その生活の最頂点の感激を表現するのに・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」
・・・秋風がさらさらと雨戸を撫でて、軒の風鈴がその度毎に弱弱しく鳴って居りましたのも幽かに思いだすことができるのでございます。ええ、幽霊を見たのはその夜のことでございます。ふっと眼をさましまして、おしっこ、と私は申しましたのでございます。婆様の御・・・ 太宰治 「葉」
・・・草も木も軒の風鈴も目に見えぬ魂が入って動くように思われる。 浜辺に焚火をしているのが見える。これは毎夜の事でその日漁した松魚を割いて炙るのであるが、浜の闇を破って舞上がる焔の色は美しく、そのまわりに動く赤裸の人影を鮮やかに浮上がらせてい・・・ 寺田寅彦 「嵐」
・・・表の河沿いの道路に面した格子窓には風鈴が吊されて夜風に涼しい音を立てていたように思う。この平凡な団欒の光景が焼付いたように自分の頭に沁み込んでいるのはどういう訳かと考えてみる。父の長い留守の間に祖母と母と三人きりで割合に広い屋敷の中でのつつ・・・ 寺田寅彦 「重兵衛さんの一家」
・・・時々涼しい風が来て軒のガラスの風鈴が鳴る。床の前には幌蚊帳の中に俊坊が顔をまっかにして枕をはずしてうつむきに寝ている。縁側へ出て見ると庭はもう半分陰になって、陰と日向の境を蟻がうろうろして出入りしている。このあいだ上田の家か・・・ 寺田寅彦 「花物語」
出典:青空文庫