・・・真暗な闇の間を、颶風のような空気の抵抗を感じながら、彼女は落ち放題に落ちて行った。「地獄に落ちて行くのだ」胆を裂くような心咎めが突然クララを襲った。それは本統はクララが始めから考えていた事なのだ。十六の歳から神の子基督の婢女として生き通そう・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・「この前の時間にも、に書いて消してをまた消して(颶風なり、と書いた、やっぱり朱で、見な…… しかも変な事には、何を狼狽たか、一枚半だけ、罫紙で残して、明日の分を、ここへ、これとしたぜ。」 と指す指が、ひッつりのように、びくりとし・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・天を蔽い地に漲る、といった処で、颶風があれば消えるだろう。儚いものではあるけれども――ああ、その儚さを一人で身に受けたのは初路さんだね。」「ええ、ですから、ですから、おじさん、そのお慰めかたがた……今では時世がかわりました。供養のために・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・ その前夜から、雨まじりのひどい颶風であった。面会の時間はかなりの早朝だったから、原稿を書く仕事で夜ふかしする癖の私は、寝過さぬ要心に、徹夜して朝を待つことにした。うっかり寝てしまうと、なかなか思った時間に眼が覚めないと心配したからだ。・・・ 織田作之助 「面会」
・・・小サイ奴が颶風だよ。だから颶風なぞは恐ろしいものではない。推算が上手になれば人間にもっとも幸福を与うるものは颶風だよ。颶風なぞを恐れる世界だから悲しいよ。それで物理学者でござるというのが有る世間だからネ。浪は螺状をなして巻き巻き進むのだよ。・・・ 幸田露伴 「ねじくり博士」
・・・ そうかと思うと、たとえばはげしい颶風があれている最中に、雨戸を少しあけて、物恐ろしい空いっぱいに樹幹の揺れ動き枝葉のちぎれ飛ぶ光景を見ている時、突然に笑いが込みあげて来る。そしてあらしの物音の中に流れ込む自分の笑声をきわめて自然なもの・・・ 寺田寅彦 「笑い」
・・・『これはきっと颶風ですね。ずぶんひどい風ですね。』 すると支那人の博士が葉巻をくわえたままふんふん笑って『家が飛ばないじゃないか。』と云うと子供の助手はまるで口を尖らせて、『だって向うの三角旗や何かぱたぱた云ってます。』・・・ 宮沢賢治 「風野又三郎」
出典:青空文庫