・・・ 板の裂ける音、錠のはね飛ぶ音、――戸はとうとう破れました。しかし肝腎の部屋の中は、まだ香炉に蒼白い火がめらめら燃えているばかり、人気のないようにしんとしています。 遠藤はその光を便りに、怯ず怯ずあたりを見廻しました。 するとす・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・若者の身のまわりには白い泡がきらきらと光って、水を切った手が濡れたまま飛魚が飛ぶように海の上に現われたり隠れたりします。私はそんなことを一生懸命に見つめていました。 とうとう若者の頭と妹の頭とが一つになりました。私は思わず指を口の中から・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・傘の飛ぶがごとし。天赤かりしとや。天狗相伝の餅というものこれなり。 いつぞやらん、その松任より、源平島、水島、手取川を越えて、山に入る、辰口という小さな温泉に行きて帰るさ、件の茶屋に憩いて、児心に、ふと見たる、帳場にはあらず、奥の別なる・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・燕の夫婦はいつしか二つがいになった、時々緑の短冊に腹を擦って飛ぶは何のためか。心長閑にこの春光に向かわば、詩人ならざるもしばらく世俗の紛紜を忘れうべきを、春愁堪え難き身のおとよは、とても春光を楽しむの人ではない。 男子家にあるもの少なく・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・小さい時から長袖が志望であったというから、あるいは画師となって立派に門戸を張る心持がまるきりなかったとも限らないが、その頃は淡島屋も繁昌していたし、椿岳の兄の伊藤八兵衛は飛ぶ鳥を落す勢いであったから、画を生活のたつきとする目的よりはやはり金・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・そして弾丸が始終高い所ばかりを飛ぶようになった。 女房もやはり気がぼうっとして来て、なんでももう百発も打ったような気がしている。その目には遠方に女学生の白いカラが見える。それをきのう的を狙ったように狙って打っている。その白いカラの外には・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
一 小さな芽 小さな木の芽が土を破って、やっと二、三寸ばかりの丈に伸びました。木の芽は、はじめて広い野原を見渡しました。大空を飛ぶ雲の影をながめました。そして、小鳥の鳴き声を聞いたのであります。(ああ、これが世の中と考えました。・・・ 小川未明 「明るき世界へ」
・・・何とやらして空飛ぶ鳥は、どこのいずこで果てるやらって唄があるが、まったく私らの身の上さね。こうやってトドの究りは、どこかの果の土になるんだ。そりゃまあいいが、旅で死んだ日にゃ犬猫も同じで、死骸も分らなけりゃ骨も残らねえ――残しておいてもしよ・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・「流血の検挙をよそに闇煙草は依然梅田新道にその涼しい顔をそろへてをり、昨日もまた今日もあの路地を、この街角で演じられた検挙の乱闘を怖れる気色もなく、ピースやコロナが飛ぶやうに売れて行く。地元曾根崎署の取締りを嘲笑するやうに、今日もま・・・ 織田作之助 「大阪の憂鬱」
冬の蠅とは何か? よぼよぼと歩いている蠅。指を近づけても逃げない蠅。そして飛べないのかと思っているとやはり飛ぶ蠅。彼らはいったいどこで夏頃の不逞さや憎々しいほどのすばしこさを失って来るのだろう。色は不鮮明に黝んで、翅体・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
出典:青空文庫