・・・この一週間ばかりと云うものは、毎日こう云う二人きりの、寂しい食事が続いている。しかし今日はいつもよりは、一層二人とも口が重かった。給仕の美津も無言のまま、盆をさし出すばかりだった。「今日は慎太郎が帰って来るかな。」 賢造は返事を予期・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・ 食事が済むと煙草を燻らす暇もなく、父は監督に帳簿を持って来るように命じた。監督が風呂はもちろん食事もつかっていないことを彼が注意したけれども、父はただ「うむ」と言っただけで、取り合わなかった。 監督は一抱えもありそうな書類をそこに・・・ 有島武郎 「親子」
・・・やっぱり初めのうちは日に五度も食事をするかも知れない。しかし君はそのうちに飽きてしまっておっくうになるよ。そうしておれん処へ来て、また引越しの披露をするよ。その時おれは、「とうとう飽きたね」と君に言うね。B 何だい。もうその時の挨拶まで・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・ 何分にも、十六七の食盛りが、毎日々々、三度の食事にがつがつしていた処へ、朝飯前とたとえにも言うのが、突落されるように嶮しい石段を下りたドン底の空腹さ。……天麩羅とも、蕎麦とも、焼芋とも、芬と塩煎餅の香しさがコンガリと鼻を突いて、袋を持・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・ 娘は、お中食のしたくいたしましょうかといったきり、あまり口数をきかない、予は食事してからちょっと鵜島へゆくから、舟をたのんでくれと命じた。 富士のすそ野を見るものはだれもおなじであろう、かならずみょうに隔世的夢幻の感にうたれる。こ・・・ 伊藤左千夫 「河口湖」
・・・ 四 翌朝、食事をすましてから、僕は机に向ってゆうべのことを考えた。吉弥が電燈の球に「やまと」のあき袋をかぶせ、はしご段の方に耳をそば立てた時の様子を見て、もろい奴、見ず転の骨頂だという嫌気がしたが、しかし自分の自由・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・いつでも散歩すると意見の衝突を来すは必ず食事であって、その度毎に「食物では話せない」といった。電車の便利のない時分、向島へ遊びに行って、夕飯を喰いにわざわざ日本橋まで俥を飛ばして行くという難かし屋であった。 その上に頗る多食家であって、・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・いつものように、みんなは、めいめいきまった場所にすわって、食事をしましたが、すんでしまうと、またいろいろお話が出たのであります。「秀公は、どうしたい。」と、お兄さんが、思い出して、おききになりました。達ちゃんは、片手にはしを握って、目を・・・ 小川未明 「二少年の話」
・・・そんな時、道端の百姓家へ泣きこんで事情を打ち明けると、食事を恵んでくれる親切なお内儀さんもありました。が、しまいにはもうそれもできなかった。というのは、事情を話せば恵んでくれるでしょうが、そのための口を利く元気すらない時の方が多かったのです・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・若草山で摘んだ蕨や谷間で採った蕗やが、若い細君の手でおひたしやお汁の実にされて、食事を楽しませた。当もない放浪の旅の身の私には、ほんとに彼らの幸福そうな生活が、羨ましかった。彼らの美しい恋のロマンスに聴き入って、私はしばしば涙を誘われた。私・・・ 葛西善蔵 「遊動円木」
出典:青空文庫